引っかき傷をつける

多田琢 #CMプランナー

ー多田さんのお父様は装丁家だったそうですが、どのような家庭環境でしたか?

特に裕福な家庭でもなく、波乱万丈なことがあったわけでも全然ないです。

ーお父様から影響を受けたことはありますか?

それはすごくあったと思いますよ。父はサラリーマンではなかったこともあって教育等に関して束縛をされることは一切なく、基本的にはやりたいことをやらせてくれました。父はセンスが良かったですし、絵や音楽には子どもの頃から触れていました。父の職業が装丁家なので本を好いていて大事に扱っているという姿は今でも覚えています。本や絵本に関しては恵まれた環境で育ってきました。絵本、少し怖い本、ファンタジーなど僕が興味を持った本は何でも買ってくれていました。お金持ちではなかったですが、そういうものに対する気持ちがあったんでしょうね。その影響で小さい頃から本が大好きでした。今、更に本を読むようになってきて中毒なくらいずっと何かを読んでいないと駄目で、大体10冊くらいを並行に読んでいます。本がないと安心できなくて、とにかく色んな本を読みたいんです。それは何でしょうね。歳を重ねて色々なものが削ぎ落されていく中で、本が好きということが残ったんです。
子どもの頃に褒められたのは絵を描くことで、それはやっぱり嬉しかったです。その影響なのか弟はイラストレーターになりました。サラリーマンとして会社の歯車になりたくないなとは漠然と思って育ったので、それよりも自由に私服でできる仕事がいいなと思っていました。

ー周りの友人たちと話は合いますか?

合いますね。僕は軸を二つ持っていて、本好きの文系と体育会系とがあります。小・中・高はスポーツの方が好きで、スポーツをしているときに「どんな本を読んだ?」なんて話はしないです。高校1年生まで野球をしていて、1年生の途中からサッカー部に入りました。

ー学生の頃、不良になった時期があったそうですね?

「つっぱり」みたいなものが格好良い時代だったんです。優等生は格好悪い・校則は守らない方がいい・ズボンも太い方がいい(笑)。でも今から思うとそれをやり抜く覚悟はないとわかっていましたけどね。不良の世界で生きていくんだ、くらいの覚悟がある奴はやっぱ強いし、本当に格好良い。でもその先がないなっていうのはわかるじゃないですか、子どもながらに。僕はスタイルだけ不良の振りをしていたって感じですね。喧嘩とかのフィジカルな不良性じゃなくて、精神的な不良性は絶対になくならないので、今でも色んな人がそういうのを持っているじゃないですか。それがずっと好きなんだと思います。

ーなぜ大学は早稲田に進学されたんですか?

早稲田が好きで、なぜならバンカラな感じがあるから(笑)。そこに不良性を感じていたんです。時代的に学生運動をやっていたら参加していたと思います。そういうエネルギーを持っている大学に見えたんです。勝手ですけど慶應は育ちがいいし東京大学は受かるわけがない。それぞれの大学が持っている学生運動の匂いがあって、青年たちのエネルギーみたいなものを魅力的に感じさせてくれる大学が自分にとっては早稲田の他にはあんまりなくて。文学部でしたけど早稲田ならどこの学部でも良かったんです。小学生の頃から絵は描いていたので自分にものすごく才能があるなと思っていたら、東京藝術大学に進学していたと思います。ですが自分で自分の才能みたいなのはわかるんですよね。野球もプロは無理だなって思ったし、絵で食っていくほどではない。自分の性格やイメージに向いているのが早稲田だったんです。

ーどんな大学生活でしたか?

本当に遊んでいましたね。ナンパからバイトから色々、勉強は全然しなかったです。4年間の休暇じゃないですけど、パラダイスだなと思いながら生活していました。アウトロー的なことは全くしていなくてとにかく遊んでいましたね。

ーその生活からどう電通に繋がっていったのでしょうか?

人に話していて自分でも本当に脈絡がないなと思いますね(笑)。大学生活はずっと遊んでいたんですが、「遊ぶ」ってことに関しても自分の本筋ではないと感じていたんです。結局、仕事をするってなって何になるかを考えた時に新聞記者になりたいと思っていたんです。あちこちへ飛んで行って取材して報道していく。正しくないものに騙されていることに対してそれは違うんじゃないのって伝えたり、海外の特派員になって現地で何が起きているか、その様子を伝えたり。その頃は本多勝一さんや沢木耕太郎さんに憧れていて。文章を書いて記事にして報道していくという生き方ですね。沢木さんは新聞記者ではないですけど、それでも新聞記者ってなんて格好良いんだろうって思っていましたね。朝日新聞の記者になりたかったのですが受からなかったんです。それで他に自分が何をしたいのかについて考えたときに、本が好きということがあって。その本の中にあったファンタジー、つまり創作ですね。映像を伴った創作にとても興味があったんです。映画研究会で映画を撮っていたわけでもないし何にも作ってはいなかったですが、そこを目指そうと思いました。小学生の頃に『ライオンと魔女』(C・S・ルイス)を読んだときの興奮、すごく面白いって思ったものを自分で作り出すことができるとしたらそれは楽しいだろうなっていう思いがあって。電通は職種の幅の中にあったんです。テレビ業界にもいこうかなと考えたのですが、電通でCMを作るということが僕のやりたいことだと思ったんです。

ー電通に受かることがすごいですよね。

僕は電通のことを知らずに受かりました。大学で映像を勉強していたわけでもないのになんで入れたんでしょうね(笑)。多分ですけど面接が上手だったんです。こちら側がどんなことを話せば相手の人たちが楽しめるかを考えるので面接は嫌いじゃなかった。つまらない面接にはやっぱり落ちるし、楽しくできた面接では受かるんですよね。相手も笑ってくれるし会話を楽しんでいました。面接のマニュアルみたいなものは読まなかったです。みんながみんな同じような感じで、トーンで喋ってくる人たちとちょっと違う。決まりの中でどう楽しむか?幅の中で楽しむことは結構広告っぽいんですよね。規則の中で想定外のことをやるということが得意だったんですね。

ー—電通では最初、営業職をされていたんですよね?

そうです。させて下さいと言いました。佐藤雅彦さんや岡康道さんもそうですがクリエイティブ局へ転局した人たちがヒットするものを作っているわけですよ。第1希望でクリエイティブ局に入っているのであればそのまま進めるとは思うんですけど、入ってから成功するパターンとして絶対にこの確率が高いなと。つまり転局している人たちを真似して営業を勉強してから、クリエイティブ局に入りたいと方針を変えたんです。ですが営業職は辛くて1年も経たずにやめたくなりました。こんなことをやるために電通に入ったわけじゃないとずっと思っていましたし。同期が早くもCMとか作っているのを見ると、あ~まずい選択をしたなと思いましたね。やっぱり最初からクリエイティブ局へ行っておけば良かったなと。しかも3年目のときに受けたクリエイティブ転局試験にも落ちました。本当に失敗しちゃったかなと思いながらも営業を続けて、ようやく30歳の頃にクリエイティブ局に転局できました。

ー最初は白土謙二さんと働かれていたんですよね?

そうです。「誰の下でやりたいの?」と聞かれたときに、そうではなくて電通プロックスというCM制作会社で勉強がしたいと言いました。どうやってCMが作られていくのか、CMの制作過程を知りたかったので制作会社に籍を置いて学びたいと思ったんです。ちょうど白土謙二さんがプロックスにいらっしゃったのでその下で働かせてもらえることになりました。

ー多田さんは先先を見て行動されていますね。

今でもどうしてそうしたのかわからないですが、自信がなかったんでしょうね。あとは下積みが嫌いじゃないっていうことなのかな。背景がある人ってやっぱり強いじゃないですか。運とタイミングだけでやってきた人よりも基本がある人間の方が強いって僕は思っているんです。あとは今の自分にそこで勝負するだけの力がないっていうこともわかっていたんでしょうね。クリエイティブ局へ配属されて、すぐにクリエイティブな表現をするっていうことよりは、そこに至るまでのノウハウとか、そういうものをしっかり蓄積してから行きたいという、単なる時間稼ぎだったのかもしれません。

ー1994年に作られたブルボン「ルナール」がターニングポイントだったと?

その頃も白土さんのところにいたので、企画を出すんです。ですが一向に自分の中の基準というのが定まらないんですよね。写真だとして、何がいい写真なのかをわからずに撮っているみたいな。アングルなのか光なのか、その基準がなくて何となくいい写真になるんじゃないかと誤魔化して撮っていても、見る人が見ればそこに全くオリジナルがないってことがばれちゃうから弱い。自分でその写真を見ても素晴らしい写真だとは思えない。どういう企画であるかについては意見をできたかもしれないけど、それがそもそも良い企画かどうかっていうことに関しては何の自信もないし理由もなかった。20から30案くらいの企画を徹夜とかして出すんですよ。その企画を見た白土さんから「多田くん的にはこの中でどれが一番面白いと思っているの?」って聞かれる。その中で僕が自分で面白いと思っているのは、ないなと思ったんです。面接と同じですよね。白土さんが求めているもの、営業が求めているもの、クライアントが求めているもの。それに対してはこうじゃないかっていうところまではいけるんだけど、その先がない。面接はそこまででよかったかもしれない。でも自分から離れた何かをアウトプットして作るときに、そこに相手がこう思っているからこうしましょうと合わせただけものは、世の中に出ると何の魅力もないものになる。自分が面白いと思う軸をもって、作っていいんだっていうことに気がつかなかったんですよね。だから自分が見たいものを作るということを、今までやってなかったと気付いたんです。丁度そのときにブルボンのお話をいただいて、僕が思う「こんなものがあったら面白いな」をそのまま作ってみたら意外と世の中でも面白いと思われた。自分で作っていて面白かったし、撮影しながら笑っていて、編集しながらも笑っていて、これが一番健康的だったんです。自分が思う面白いことを大事にしながら作ることができて、それで面白いことを証明できたことが大きかったんですかね。自分が面白いと思っていることを、他の誰も面白いとは思わないんだよってインプットされてしまったら、もうそこで終わっていたかもしれない。そういう風に思ってしまう人ってCMだけじゃなくてもいっぱいいると思うんですよね。ブルボン「ルーナル」は自分が思う面白いと、世間が思う面白いがうまくはまったんですね。

ー電通はそういった挑戦ができる環境なんですね。

今はわからないですが、当時は「CMクラブ」というものがあったんです。クリエイティブ局は部長以下が縦軸で働くことが基本なのですが、そうじゃなくてクリエイティブ局の中で若い人たちだけを横軸で集めて勉強する。架空のクライアントを想定して企画書を出して、先輩たちが講師になって添削してくれる。そういった道場じゃないですけどクラブがあったんです。そしてそこに営業が仕事を発注することもあって、CMクラブにやらせてみようと言うように。そこでできたのがブルボン「ルナール」だったんです。

ー営業職のときに学んだのはどんなことですか?

すごくたくさんありますね。例えば、今の広告業界の感じとはちょっと違うと思いますけど、「オリエンテーション」(以下オリエン)ってあるんですね。クライアントから商品に関する良いところを聞いて企画を出す、普通はその通りにやりますよね。だけど、その通りではないものが選ばれたりするわけですよ。あのようなオリエンをして、どうしてこうなったんだろうみたいなことってあるんです。営業は毎日クライアント先へ行って毎日話すけど、クリエイティブは1ヶ月に1回会うか会わないかぐらいなので、生の声っていうのかな、そういうものは営業を通して聞くしかない中で、これ面白いでしょって言ってみたら通ったり。オリエンは神の声でも何でもないというか、やっぱり人間なので本当に魅力的なものを出されたらそれを選んじゃうよねっていう。そういうことがわかりましたね。今もそうだし、営業のときも特に感じましたけど、やっぱりこの広告の中の仕事って人間と人間の付き合いなんです。自分だけがこうだっていうよりは、ちゃんとそこに人がついてくるかとか、あの人のためなら死ぬ気でやろう、いいものを作ろうとか、そういう人間関係の中でできていくものなんです。それがクリエイティブです。この中で答えを選んでくださいっていうだけじゃない。誰に頼んで、どういう話をして、どんな人たちを動かさなきゃいけないかっていう、だから自分だけで終わるものじゃないし僕らは最終地点じゃないんです。ディレクターやカメラマンなど様々な人が関わって作っていく。その人たち全体を一つの目的に対してわっとまとめる力はやっぱり人間力であり、人間関係の力なんです。電通はそもそも人間関係で動く会社なんだって学んだことは大きかったです。今はイメージが良くないですけど(笑)。すごく仕事ができる人たちはやっぱりみんな魅力的でしたよ。営業は色々な人に会うので、魅力的な人をたくさん知ることができました。中には暴走族の幹部の人がいたり、会うとやっぱり引き込まれちゃうんですよね。

ー1999年にTUGBOAT(クリエイティブ・エージェンシー)に参加されますね。

プレッシャーはありましたよね。昨日までいいものが作れたのに、途中で突如スランプに陥る可能性だってあるわけじゃないですか。他ではできない面白いものができるであろうという期待からここに電話してきてもらえる。そこができなくなったなと思われたら、社内で済ませようってことになっちゃう。わざわざ僕らに頼みたいと思ってもらえるものを作り続けていなければ会社は続かない。会社を続けたいから作るのではないですけど、緊張感はありましたよね。電通を辞めたらいきなり世の中に迎合しだしたなっていう風には思われたくなかったです。

ー多田さんが広告を作るときの信念を教えてください。

クライアントと一緒に作っていく方がうまくいきます。だからクライアントまでしっかりと仲間に引き入れられるかどうかが重要です。最終判断の権利はクライアントが持っているので、「それじゃないよ」って言われたらもうおしまいです。クライアントにそれをやりたいって思わせることができたり、「一緒にやっているんです!」という気持ちになってもらえることはすごく重要なことです。僕らが無理やり説得して進めていくものではないんだろうなって思います。でも、うまくいくかいかないかで言えば、うまくいかない方が多いですよ(笑)。

ースタッフの選び方を教えてください。

ディレクターは絶対に自分で決めます。カメラマンや照明といったその他のスタッフに関しては基本的にはディレクターにお任せします。でも自分のイメージも伝えます。口を出しているという印象にならないようにとは思っているけど、それでも「ちなみにこの人はどうですか」みたいなことを聞いたりはしますね。

ー多田さんは若手を調べたりするんですか?

若手のディレクターやカメラマンのことは気になる作品があれば調べますね。この絵がなんかすごくいいんだけど誰が撮影しているんだろうとか、本能的にいいなって感じる部分を表現することができるか。理由はわからないけれどいいという、そこの表現ができる人は大事だなあと思います。

ー子育てについて。

僕は積極的に参加していたと思います。子どもへの関与というより一緒にじゃれるっていう感じかな。子どもと運動を楽しんだりしていました。やらなくちゃいけない家事の一つが子育て、という意識では多分やっていないですね。教育ということに関してもやってないです。それでも人としてしてはいけないことは教えたつもりです。今となって、もっとやっておけばよかったなと思いますけど(笑)。基本的には同じ目線で同じものを楽しむっていうことです。子どもが好きなものを一緒に楽しみたいから、子どもがやりたいと思っている野球やサッカを一緒にする。チームに入って応援したりしてめちゃくちゃ楽しかったし、野球チームでは監督までやっていました。忙しくてもできる範囲で、一緒に遊んでいてヘロヘロになりますが、嫌じゃなかったですね。

ー50代ってどんな感じですか?

基本はやっぱり仕事のことでしかないんですけど、色んなことがわかるようになる。経験値が増えて、こうやったらこうなるという手段がわかってくる。未知なものが少なくなってくるんですよ。それが若干のつまらなさの一つにはなっている。だから企画をするにしても4つ5つ数を考えることだけならできるんですけど、全部に関して自分が本当にやりたいと思えるものを4つ5つ考えることが厳しくなってきました。これをやってもまぁまぁ面白いけど、すごく見たいものじゃない。だんだん選択肢っていうのが少なくなってきました。変な失敗もしないんだけど、バーッと広がっている感じもしない。平和ではあるかもしれないけど、興奮が少なくなってきた。意味のあるくだらなさならいいんだけど、幼稚なだけのくだらなさには興味がないし見たくもないっていう感じがしてくるんですよね。ちゃんと自分が惚れられる、いいなって思っていけるものは数が少ないし、広告には向いてないっていうようなものもある。けどそれが却って新しさになるんじゃないかなと思って今、四苦八苦しているところですね。若い頃は面白がっていたことが世の中とリンクしてすごく楽だったんですが、今の世の中や広告が求めているものとは違ってきた。意味はよくわからないけど何か惹かれてしまうっていうところを必要としない感じになっている。わかるもの、わかりやすいもの。人が文句を言わないもの、誰も傷つかないもの。そういうものが表現の前提になってしまっている。むしろそうではないものの方が、本当に人の気持ちが動くのになっていう。そういうところと自分の中でのバランスの取り合いがあって、大人になれば気難しくなってくると思うんですよ。50代になったっていう話で言うと、段々と自分の好みが明確になってきて、そこを壊してまでそうではない表現をし始めるとちょっと居心地が悪い感じがする。人に強要もしたくないし強要をする場所でもないので、わかってもらうよう努力することになる。オセロがひっくり返るときの様に、すごく良いんだとみんなにわかってもらえる勝負をちゃんとして勝てるのかっていうところが今一番の課題です。それはもしかしたらCMではない場所なのかもしれない、その場所でやろうと思えばできる環境にいる立場なので急がないと、と思っています。

ー審査員をされることについてはどう思っているんですか?

審査はどうでもいいと思ってますよ(笑)。もちろん真面目にはしますし大事だとは思っていますが、そんな事をやっている場合じゃない。僕はめちゃくちゃ自己中ですから、他の人のことなんてどうでもいいって本当は思ってますよ(笑)。

ーCMからは離れないですか?

今、そこそこのCMを作ったりして同じことを続けていくことはできると思うんです。でもそれじゃ新しくないと思っている。未知なものが好きなんですよね。もっと何かできるんじゃないかと思いながら、みんな結局できずに終わっていくのかもしれないけど、やっぱりCMも常に自分が見たいものを作るっていうことを前提としているので、それ以外には何もないんですよね。だけど広告の仕事の場合は、ただ見たいものを強引にやっているわけではないんです。そのCMとして最も良いものを作りたいということが大前提なので、例えばそこに役者さんが出るのであれば、その役者さんがそこにでて、一番輝けるかどうかが重要なんです。その広告の中で表現したものが、同時にその役者さんの、人には気付かれていないすごく良いところが出たり、人には5しか伝わっていないけど本当は20もある魅力が見えたりという、その一瞬を引き出したいと思うんです。それは元々もっているものでも、新しい一面でも。だから人を笑わせる力があると思ったらそこを出したいし、格好良いところがあるんだったらそこを出したいと思うし、そういうものが自分の見たいものです。「役者さん」が好きだから、それぞれの一番いいところを見たい。その商品にとって良いCMで、その役者さんにとっても良い出方をしているものが、最終的に自分の見たい世界に収まっているかどうかが一番大切です。それでも、作っていきたいと思うものがどうしても、15秒か30秒では収まりきらない場合は、本当はどこでそれに出会いたかったんだろう、それは小説かもしれないし何なのだろうとは考えるんですけど。でも僕はやっぱり広告の中で表現すればいいと思っているんです。多分僕は今、色んなことができる。なんでやらないのかを自問することもあるけど、基本的にCMでできるのが一番だと思っています。他のことで逃げ道を作らず、CMと如何に向き合っているかどうかが、うまくいく上で大事なことだと思っているので。けどそれを逃げ道にしていないかっていう自分もいるので、ややこしいですね。どっちやねん?みたいな。

ー映画を作っていた時期はぷらぷらしていた時期だったんですか?

そのときはやりたいことが映画だったんです。こんな映像もやってみたいというのがあって、端的にいうとCMでは誰も殺せないでしょ?とか。そのときと比べて今はより内面的なことですかね。自分の中でもまだ固まっていないこともあって。それは映画を見たり本を読んだりしているときに感じるんですよね。こういうことが自分には一番響くんだなというものに触れる。そういう風に自分に響いているものは、自分で作りたいんですよ。だからと言ってそれがそのまま本や映画であるわけでもないんですが、間違いないのは人間のことであるということなんですよ。人間の生き方や死に方、もっとコアな部分に対して考えるのは楽しいし、そういうものを見ていても楽しいです。

ー自分に響くものは変わっていっていますか?

変わります。僕はみんな変わると思いますけどね。ある程度のところまでは同じだと思いますよ。突然、好みが全く変わるってわけじゃなくて、同じなんだけどそこからちょっと変化があるとか上乗せがあるとか、それが無駄なものが削がれることなのかはわからないですけど、少し輪郭が強く見えてくるっていう感じはしますね。

ー多田さんの好みは、時代と同じだと感じますか?

この時代の嫌なところっていっぱいあるじゃないですか、いいところもいっぱいあるけど。そうすると逆に自分の好みがわかってくるっていうか、こういうことを考えている人がいっぱいいることが嫌だなって思ったら、それは自分の好みと逆だからという風に。だから時代は大事ですよ。それがないと自分のポジションがわからなくなってくる。
コロナウイルスで日本人というものをすごく考えましたね。歴史の本を読んで日本人っていい民族だよなとかを考えるのは好きだし、今までなかった知識が満たされるときに、ちょっと面白いなと思う。そういう部分が満たされる広告みたいなものがあっていいのにな、と思います。昔の広告は「ランボー」の旅芸人の映像で「サントリーローヤル!」みたいなものが成立していた。子どもの頃はよくわからないけど格好良いなとは思っていました。テレビドラマ『傷だらけの天使』で萩原健一が牛乳瓶を空けて飲んでいるのが格好良いとか、何か背伸びしている感みたいなものはすごく大事だと思うので、そういうものの中に満たされてみたいな、とか。この感覚をどうやって人と共有すればいいんだろう、みたいなことをよく考えています。

ーCMプランナーの面白さって、そういうところですか?

僕にとってはね。でもあんまりいないと思いますよ。僕は思っていることをストレートに伝えることはなるべくしたくない。一番やりたくないと思うのは「絆が大事だよね」みたいな薄っぺらいことを声高に言うことです。逆に言うと、そうじゃない、真逆のところを人に差し出して握手してもらいたいっていうのはありますよね。今の広告って差し出した手をいかに多くの人が見るかっていうことばっかり気にしているわけですよ。「いいね」がどのくらいつくとか、認知されたとか。でも本当は誰も握り返していなければそれは成立しないんですよね。その手を見る機会が少なかったとしても、その手をしっかり見た人が手を握り返したのであれば、それが一番強い広告であって、一番伝わったこと、機能したことになりますから。「手を見た人が1万人いる」ということだけでgoodとしている感じがあるんです。納得できないわけじゃないですけど、そっちをやりたいと僕は思わない。少し意固地になっているんですかね(笑)。ある社会学者の方が「芸術は癒したり慰めたりするものじゃなくて、傷をつけるものだ」と言っていました。何かしらの引っかき傷をつける。CMを芸術だとは思わないですけど、それでも表現されるものって、みんなの想定外のものじゃない限り本当は、認識されたことにはならないんだろうなと思います。
「大人エレベーター」(サッポロ生ビール黒ラベルのTVCM)ってそれなんですよね。僕が話を聞きたい人を呼んで、聞くという教育なんです。僕は大人の背中を格好良いと思っています。今の子どもと自分の子どもに対して自分の背中を見ろ、っていう生き方はしてないし教育もしていないけど、いい大人を見て欲しいと思うんです。いい大人っていうのはやっぱり僕がちゃんとセレクトして提示して、その人が言ったことの中に僕に響いたな、これを他の人にも聞いてほしいなっていう言葉を採集して届けていくという、それだけの作業なんです。でもそれはある意味で教育なのだと思います。
僕は北野武さんに「人間強さって何ですか?」と聞きたくて、そうしたら「鈍感さかな」って答えられたんですよね。それは僕が言っても説得力がないけれど、格好良い大人の北野さんが言うからこそ力のある言葉です。何かを見つければ、そこから新しい何かを引き出せる。それを探している50代ですね。

多田琢

CMプランナー。
1963年生まれ。1987年に大学卒業後、電通に入社。1999年、クリエイティブエージェンシー「TUGBOAT」を設立。

引っかき傷をつける

多田琢 #CMプランナー

ー多田さんのお父様は装丁家だったそうですが、どのような家庭環境でしたか?

特に裕福な家庭でもなく、波乱万丈なことがあったわけでも全然ないです。

ーお父様から影響を受けたことはありますか?

それはすごくあったと思いますよ。父はサラリーマンではなかったこともあって教育等に関して束縛をされることは一切なく、基本的にはやりたいことをやらせてくれました。父はセンスが良かったですし、絵や音楽には子どもの頃から触れていました。父の職業が装丁家なので本を好いていて大事に扱っているという姿は今でも覚えています。本や絵本に関しては恵まれた環境で育ってきました。絵本、少し怖い本、ファンタジーなど僕が興味を持った本は何でも買ってくれていました。お金持ちではなかったですが、そういうものに対する気持ちがあったんでしょうね。その影響で小さい頃から本が大好きでした。今、更に本を読むようになってきて中毒なくらいずっと何かを読んでいないと駄目で、大体10冊くらいを並行に読んでいます。本がないと安心できなくて、とにかく色んな本を読みたいんです。それは何でしょうね。歳を重ねて色々なものが削ぎ落されていく中で、本が好きということが残ったんです。
子どもの頃に褒められたのは絵を描くことで、それはやっぱり嬉しかったです。その影響なのか弟はイラストレーターになりました。サラリーマンとして会社の歯車になりたくないなとは漠然と思って育ったので、それよりも自由に私服でできる仕事がいいなと思っていました。

ー周りの友人たちと話は合いますか?

合いますね。僕は軸を二つ持っていて、本好きの文系と体育会系とがあります。小・中・高はスポーツの方が好きで、スポーツをしているときに「どんな本を読んだ?」なんて話はしないです。高校1年生まで野球をしていて、1年生の途中からサッカー部に入りました。

ー学生の頃、不良になった時期があったそうですね?

「つっぱり」みたいなものが格好良い時代だったんです。優等生は格好悪い・校則は守らない方がいい・ズボンも太い方がいい(笑)。でも今から思うとそれをやり抜く覚悟はないとわかっていましたけどね。不良の世界で生きていくんだ、くらいの覚悟がある奴はやっぱ強いし、本当に格好良い。でもその先がないなっていうのはわかるじゃないですか、子どもながらに。僕はスタイルだけ不良の振りをしていたって感じですね。喧嘩とかのフィジカルな不良性じゃなくて、精神的な不良性は絶対になくならないので、今でも色んな人がそういうのを持っているじゃないですか。それがずっと好きなんだと思います。

ーなぜ大学は早稲田に進学されたんですか?

早稲田が好きで、なぜならバンカラな感じがあるから(笑)。そこに不良性を感じていたんです。時代的に学生運動をやっていたら参加していたと思います。そういうエネルギーを持っている大学に見えたんです。勝手ですけど慶應は育ちがいいし東京大学は受かるわけがない。それぞれの大学が持っている学生運動の匂いがあって、青年たちのエネルギーみたいなものを魅力的に感じさせてくれる大学が自分にとっては早稲田の他にはあんまりなくて。文学部でしたけど早稲田ならどこの学部でも良かったんです。小学生の頃から絵は描いていたので自分にものすごく才能があるなと思っていたら、東京藝術大学に進学していたと思います。ですが自分で自分の才能みたいなのはわかるんですよね。野球もプロは無理だなって思ったし、絵で食っていくほどではない。自分の性格やイメージに向いているのが早稲田だったんです。

ーどんな大学生活でしたか?

本当に遊んでいましたね。ナンパからバイトから色々、勉強は全然しなかったです。4年間の休暇じゃないですけど、パラダイスだなと思いながら生活していました。アウトロー的なことは全くしていなくてとにかく遊んでいましたね。

ーその生活からどう電通に繋がっていったのでしょうか?

人に話していて自分でも本当に脈絡がないなと思いますね(笑)。大学生活はずっと遊んでいたんですが、「遊ぶ」ってことに関しても自分の本筋ではないと感じていたんです。結局、仕事をするってなって何になるかを考えた時に新聞記者になりたいと思っていたんです。あちこちへ飛んで行って取材して報道していく。正しくないものに騙されていることに対してそれは違うんじゃないのって伝えたり、海外の特派員になって現地で何が起きているか、その様子を伝えたり。その頃は本多勝一さんや沢木耕太郎さんに憧れていて。文章を書いて記事にして報道していくという生き方ですね。沢木さんは新聞記者ではないですけど、それでも新聞記者ってなんて格好良いんだろうって思っていましたね。朝日新聞の記者になりたかったのですが受からなかったんです。それで他に自分が何をしたいのかについて考えたときに、本が好きということがあって。その本の中にあったファンタジー、つまり創作ですね。映像を伴った創作にとても興味があったんです。映画研究会で映画を撮っていたわけでもないし何にも作ってはいなかったですが、そこを目指そうと思いました。小学生の頃に『ライオンと魔女』(C・S・ルイス)を読んだときの興奮、すごく面白いって思ったものを自分で作り出すことができるとしたらそれは楽しいだろうなっていう思いがあって。電通は職種の幅の中にあったんです。テレビ業界にもいこうかなと考えたのですが、電通でCMを作るということが僕のやりたいことだと思ったんです。

ー電通に受かることがすごいですよね。

僕は電通のことを知らずに受かりました。大学で映像を勉強していたわけでもないのになんで入れたんでしょうね(笑)。多分ですけど面接が上手だったんです。こちら側がどんなことを話せば相手の人たちが楽しめるかを考えるので面接は嫌いじゃなかった。つまらない面接にはやっぱり落ちるし、楽しくできた面接では受かるんですよね。相手も笑ってくれるし会話を楽しんでいました。面接のマニュアルみたいなものは読まなかったです。みんながみんな同じような感じで、トーンで喋ってくる人たちとちょっと違う。決まりの中でどう楽しむか?幅の中で楽しむことは結構広告っぽいんですよね。規則の中で想定外のことをやるということが得意だったんですね。

ー—電通では最初、営業職をされていたんですよね?

そうです。させて下さいと言いました。佐藤雅彦さんや岡康道さんもそうですがクリエイティブ局へ転局した人たちがヒットするものを作っているわけですよ。第1希望でクリエイティブ局に入っているのであればそのまま進めるとは思うんですけど、入ってから成功するパターンとして絶対にこの確率が高いなと。つまり転局している人たちを真似して営業を勉強してから、クリエイティブ局に入りたいと方針を変えたんです。ですが営業職は辛くて1年も経たずにやめたくなりました。こんなことをやるために電通に入ったわけじゃないとずっと思っていましたし。同期が早くもCMとか作っているのを見ると、あ~まずい選択をしたなと思いましたね。やっぱり最初からクリエイティブ局へ行っておけば良かったなと。しかも3年目のときに受けたクリエイティブ転局試験にも落ちました。本当に失敗しちゃったかなと思いながらも営業を続けて、ようやく30歳の頃にクリエイティブ局に転局できました。

ー最初は白土謙二さんと働かれていたんですよね?

そうです。「誰の下でやりたいの?」と聞かれたときに、そうではなくて電通プロックスというCM制作会社で勉強がしたいと言いました。どうやってCMが作られていくのか、CMの制作過程を知りたかったので制作会社に籍を置いて学びたいと思ったんです。ちょうど白土謙二さんがプロックスにいらっしゃったのでその下で働かせてもらえることになりました。

ー多田さんは先先を見て行動されていますね。

今でもどうしてそうしたのかわからないですが、自信がなかったんでしょうね。あとは下積みが嫌いじゃないっていうことなのかな。背景がある人ってやっぱり強いじゃないですか。運とタイミングだけでやってきた人よりも基本がある人間の方が強いって僕は思っているんです。あとは今の自分にそこで勝負するだけの力がないっていうこともわかっていたんでしょうね。クリエイティブ局へ配属されて、すぐにクリエイティブな表現をするっていうことよりは、そこに至るまでのノウハウとか、そういうものをしっかり蓄積してから行きたいという、単なる時間稼ぎだったのかもしれません。

ー1994年に作られたブルボン「ルナール」がターニングポイントだったと?

その頃も白土さんのところにいたので、企画を出すんです。ですが一向に自分の中の基準というのが定まらないんですよね。写真だとして、何がいい写真なのかをわからずに撮っているみたいな。アングルなのか光なのか、その基準がなくて何となくいい写真になるんじゃないかと誤魔化して撮っていても、見る人が見ればそこに全くオリジナルがないってことがばれちゃうから弱い。自分でその写真を見ても素晴らしい写真だとは思えない。どういう企画であるかについては意見をできたかもしれないけど、それがそもそも良い企画かどうかっていうことに関しては何の自信もないし理由もなかった。20から30案くらいの企画を徹夜とかして出すんですよ。その企画を見た白土さんから「多田くん的にはこの中でどれが一番面白いと思っているの?」って聞かれる。その中で僕が自分で面白いと思っているのは、ないなと思ったんです。面接と同じですよね。白土さんが求めているもの、営業が求めているもの、クライアントが求めているもの。それに対してはこうじゃないかっていうところまではいけるんだけど、その先がない。面接はそこまででよかったかもしれない。でも自分から離れた何かをアウトプットして作るときに、そこに相手がこう思っているからこうしましょうと合わせただけものは、世の中に出ると何の魅力もないものになる。自分が面白いと思う軸をもって、作っていいんだっていうことに気がつかなかったんですよね。だから自分が見たいものを作るということを、今までやってなかったと気付いたんです。丁度そのときにブルボンのお話をいただいて、僕が思う「こんなものがあったら面白いな」をそのまま作ってみたら意外と世の中でも面白いと思われた。自分で作っていて面白かったし、撮影しながら笑っていて、編集しながらも笑っていて、これが一番健康的だったんです。自分が思う面白いことを大事にしながら作ることができて、それで面白いことを証明できたことが大きかったんですかね。自分が面白いと思っていることを、他の誰も面白いとは思わないんだよってインプットされてしまったら、もうそこで終わっていたかもしれない。そういう風に思ってしまう人ってCMだけじゃなくてもいっぱいいると思うんですよね。ブルボン「ルーナル」は自分が思う面白いと、世間が思う面白いがうまくはまったんですね。

ー電通はそういった挑戦ができる環境なんですね。

今はわからないですが、当時は「CMクラブ」というものがあったんです。クリエイティブ局は部長以下が縦軸で働くことが基本なのですが、そうじゃなくてクリエイティブ局の中で若い人たちだけを横軸で集めて勉強する。架空のクライアントを想定して企画書を出して、先輩たちが講師になって添削してくれる。そういった道場じゃないですけどクラブがあったんです。そしてそこに営業が仕事を発注することもあって、CMクラブにやらせてみようと言うように。そこでできたのがブルボン「ルナール」だったんです。

ー営業職のときに学んだのはどんなことですか?

すごくたくさんありますね。例えば、今の広告業界の感じとはちょっと違うと思いますけど、「オリエンテーション」(以下オリエン)ってあるんですね。クライアントから商品に関する良いところを聞いて企画を出す、普通はその通りにやりますよね。だけど、その通りではないものが選ばれたりするわけですよ。あのようなオリエンをして、どうしてこうなったんだろうみたいなことってあるんです。営業は毎日クライアント先へ行って毎日話すけど、クリエイティブは1ヶ月に1回会うか会わないかぐらいなので、生の声っていうのかな、そういうものは営業を通して聞くしかない中で、これ面白いでしょって言ってみたら通ったり。オリエンは神の声でも何でもないというか、やっぱり人間なので本当に魅力的なものを出されたらそれを選んじゃうよねっていう。そういうことがわかりましたね。今もそうだし、営業のときも特に感じましたけど、やっぱりこの広告の中の仕事って人間と人間の付き合いなんです。自分だけがこうだっていうよりは、ちゃんとそこに人がついてくるかとか、あの人のためなら死ぬ気でやろう、いいものを作ろうとか、そういう人間関係の中でできていくものなんです。それがクリエイティブです。この中で答えを選んでくださいっていうだけじゃない。誰に頼んで、どういう話をして、どんな人たちを動かさなきゃいけないかっていう、だから自分だけで終わるものじゃないし僕らは最終地点じゃないんです。ディレクターやカメラマンなど様々な人が関わって作っていく。その人たち全体を一つの目的に対してわっとまとめる力はやっぱり人間力であり、人間関係の力なんです。電通はそもそも人間関係で動く会社なんだって学んだことは大きかったです。今はイメージが良くないですけど(笑)。すごく仕事ができる人たちはやっぱりみんな魅力的でしたよ。営業は色々な人に会うので、魅力的な人をたくさん知ることができました。中には暴走族の幹部の人がいたり、会うとやっぱり引き込まれちゃうんですよね。

ー1999年にTUGBOAT(クリエイティブ・エージェンシー)に参加されますね。

プレッシャーはありましたよね。昨日までいいものが作れたのに、途中で突如スランプに陥る可能性だってあるわけじゃないですか。他ではできない面白いものができるであろうという期待からここに電話してきてもらえる。そこができなくなったなと思われたら、社内で済ませようってことになっちゃう。わざわざ僕らに頼みたいと思ってもらえるものを作り続けていなければ会社は続かない。会社を続けたいから作るのではないですけど、緊張感はありましたよね。電通を辞めたらいきなり世の中に迎合しだしたなっていう風には思われたくなかったです。

ー多田さんが広告を作るときの信念を教えてください。

クライアントと一緒に作っていく方がうまくいきます。だからクライアントまでしっかりと仲間に引き入れられるかどうかが重要です。最終判断の権利はクライアントが持っているので、「それじゃないよ」って言われたらもうおしまいです。クライアントにそれをやりたいって思わせることができたり、「一緒にやっているんです!」という気持ちになってもらえることはすごく重要なことです。僕らが無理やり説得して進めていくものではないんだろうなって思います。でも、うまくいくかいかないかで言えば、うまくいかない方が多いですよ(笑)。

ースタッフの選び方を教えてください。

ディレクターは絶対に自分で決めます。カメラマンや照明といったその他のスタッフに関しては基本的にはディレクターにお任せします。でも自分のイメージも伝えます。口を出しているという印象にならないようにとは思っているけど、それでも「ちなみにこの人はどうですか」みたいなことを聞いたりはしますね。

ー多田さんは若手を調べたりするんですか?

若手のディレクターやカメラマンのことは気になる作品があれば調べますね。この絵がなんかすごくいいんだけど誰が撮影しているんだろうとか、本能的にいいなって感じる部分を表現することができるか。理由はわからないけれどいいという、そこの表現ができる人は大事だなあと思います。

ー子育てについて。

僕は積極的に参加していたと思います。子どもへの関与というより一緒にじゃれるっていう感じかな。子どもと運動を楽しんだりしていました。やらなくちゃいけない家事の一つが子育て、という意識では多分やっていないですね。教育ということに関してもやってないです。それでも人としてしてはいけないことは教えたつもりです。今となって、もっとやっておけばよかったなと思いますけど(笑)。基本的には同じ目線で同じものを楽しむっていうことです。子どもが好きなものを一緒に楽しみたいから、子どもがやりたいと思っている野球やサッカを一緒にする。チームに入って応援したりしてめちゃくちゃ楽しかったし、野球チームでは監督までやっていました。忙しくてもできる範囲で、一緒に遊んでいてヘロヘロになりますが、嫌じゃなかったですね。

ー50代ってどんな感じですか?

基本はやっぱり仕事のことでしかないんですけど、色んなことがわかるようになる。経験値が増えて、こうやったらこうなるという手段がわかってくる。未知なものが少なくなってくるんですよ。それが若干のつまらなさの一つにはなっている。だから企画をするにしても4つ5つ数を考えることだけならできるんですけど、全部に関して自分が本当にやりたいと思えるものを4つ5つ考えることが厳しくなってきました。これをやってもまぁまぁ面白いけど、すごく見たいものじゃない。だんだん選択肢っていうのが少なくなってきました。変な失敗もしないんだけど、バーッと広がっている感じもしない。平和ではあるかもしれないけど、興奮が少なくなってきた。意味のあるくだらなさならいいんだけど、幼稚なだけのくだらなさには興味がないし見たくもないっていう感じがしてくるんですよね。ちゃんと自分が惚れられる、いいなって思っていけるものは数が少ないし、広告には向いてないっていうようなものもある。けどそれが却って新しさになるんじゃないかなと思って今、四苦八苦しているところですね。若い頃は面白がっていたことが世の中とリンクしてすごく楽だったんですが、今の世の中や広告が求めているものとは違ってきた。意味はよくわからないけど何か惹かれてしまうっていうところを必要としない感じになっている。わかるもの、わかりやすいもの。人が文句を言わないもの、誰も傷つかないもの。そういうものが表現の前提になってしまっている。むしろそうではないものの方が、本当に人の気持ちが動くのになっていう。そういうところと自分の中でのバランスの取り合いがあって、大人になれば気難しくなってくると思うんですよ。50代になったっていう話で言うと、段々と自分の好みが明確になってきて、そこを壊してまでそうではない表現をし始めるとちょっと居心地が悪い感じがする。人に強要もしたくないし強要をする場所でもないので、わかってもらうよう努力することになる。オセロがひっくり返るときの様に、すごく良いんだとみんなにわかってもらえる勝負をちゃんとして勝てるのかっていうところが今一番の課題です。それはもしかしたらCMではない場所なのかもしれない、その場所でやろうと思えばできる環境にいる立場なので急がないと、と思っています。

ー審査員をされることについてはどう思っているんですか?

審査はどうでもいいと思ってますよ(笑)。もちろん真面目にはしますし大事だとは思っていますが、そんな事をやっている場合じゃない。僕はめちゃくちゃ自己中ですから、他の人のことなんてどうでもいいって本当は思ってますよ(笑)。

ーCMからは離れないですか?

今、そこそこのCMを作ったりして同じことを続けていくことはできると思うんです。でもそれじゃ新しくないと思っている。未知なものが好きなんですよね。もっと何かできるんじゃないかと思いながら、みんな結局できずに終わっていくのかもしれないけど、やっぱりCMも常に自分が見たいものを作るっていうことを前提としているので、それ以外には何もないんですよね。だけど広告の仕事の場合は、ただ見たいものを強引にやっているわけではないんです。そのCMとして最も良いものを作りたいということが大前提なので、例えばそこに役者さんが出るのであれば、その役者さんがそこにでて、一番輝けるかどうかが重要なんです。その広告の中で表現したものが、同時にその役者さんの、人には気付かれていないすごく良いところが出たり、人には5しか伝わっていないけど本当は20もある魅力が見えたりという、その一瞬を引き出したいと思うんです。それは元々もっているものでも、新しい一面でも。だから人を笑わせる力があると思ったらそこを出したいし、格好良いところがあるんだったらそこを出したいと思うし、そういうものが自分の見たいものです。「役者さん」が好きだから、それぞれの一番いいところを見たい。その商品にとって良いCMで、その役者さんにとっても良い出方をしているものが、最終的に自分の見たい世界に収まっているかどうかが一番大切です。それでも、作っていきたいと思うものがどうしても、15秒か30秒では収まりきらない場合は、本当はどこでそれに出会いたかったんだろう、それは小説かもしれないし何なのだろうとは考えるんですけど。でも僕はやっぱり広告の中で表現すればいいと思っているんです。多分僕は今、色んなことができる。なんでやらないのかを自問することもあるけど、基本的にCMでできるのが一番だと思っています。他のことで逃げ道を作らず、CMと如何に向き合っているかどうかが、うまくいく上で大事なことだと思っているので。けどそれを逃げ道にしていないかっていう自分もいるので、ややこしいですね。どっちやねん?みたいな。

ー映画を作っていた時期はぷらぷらしていた時期だったんですか?

そのときはやりたいことが映画だったんです。こんな映像もやってみたいというのがあって、端的にいうとCMでは誰も殺せないでしょ?とか。そのときと比べて今はより内面的なことですかね。自分の中でもまだ固まっていないこともあって。それは映画を見たり本を読んだりしているときに感じるんですよね。こういうことが自分には一番響くんだなというものに触れる。そういう風に自分に響いているものは、自分で作りたいんですよ。だからと言ってそれがそのまま本や映画であるわけでもないんですが、間違いないのは人間のことであるということなんですよ。人間の生き方や死に方、もっとコアな部分に対して考えるのは楽しいし、そういうものを見ていても楽しいです。

ー自分に響くものは変わっていっていますか?

変わります。僕はみんな変わると思いますけどね。ある程度のところまでは同じだと思いますよ。突然、好みが全く変わるってわけじゃなくて、同じなんだけどそこからちょっと変化があるとか上乗せがあるとか、それが無駄なものが削がれることなのかはわからないですけど、少し輪郭が強く見えてくるっていう感じはしますね。

ー多田さんの好みは、時代と同じだと感じますか?

この時代の嫌なところっていっぱいあるじゃないですか、いいところもいっぱいあるけど。そうすると逆に自分の好みがわかってくるっていうか、こういうことを考えている人がいっぱいいることが嫌だなって思ったら、それは自分の好みと逆だからという風に。だから時代は大事ですよ。それがないと自分のポジションがわからなくなってくる。
コロナウイルスで日本人というものをすごく考えましたね。歴史の本を読んで日本人っていい民族だよなとかを考えるのは好きだし、今までなかった知識が満たされるときに、ちょっと面白いなと思う。そういう部分が満たされる広告みたいなものがあっていいのにな、と思います。昔の広告は「ランボー」の旅芸人の映像で「サントリーローヤル!」みたいなものが成立していた。子どもの頃はよくわからないけど格好良いなとは思っていました。テレビドラマ『傷だらけの天使』で萩原健一が牛乳瓶を空けて飲んでいるのが格好良いとか、何か背伸びしている感みたいなものはすごく大事だと思うので、そういうものの中に満たされてみたいな、とか。この感覚をどうやって人と共有すればいいんだろう、みたいなことをよく考えています。

ーCMプランナーの面白さって、そういうところですか?

僕にとってはね。でもあんまりいないと思いますよ。僕は思っていることをストレートに伝えることはなるべくしたくない。一番やりたくないと思うのは「絆が大事だよね」みたいな薄っぺらいことを声高に言うことです。逆に言うと、そうじゃない、真逆のところを人に差し出して握手してもらいたいっていうのはありますよね。今の広告って差し出した手をいかに多くの人が見るかっていうことばっかり気にしているわけですよ。「いいね」がどのくらいつくとか、認知されたとか。でも本当は誰も握り返していなければそれは成立しないんですよね。その手を見る機会が少なかったとしても、その手をしっかり見た人が手を握り返したのであれば、それが一番強い広告であって、一番伝わったこと、機能したことになりますから。「手を見た人が1万人いる」ということだけでgoodとしている感じがあるんです。納得できないわけじゃないですけど、そっちをやりたいと僕は思わない。少し意固地になっているんですかね(笑)。ある社会学者の方が「芸術は癒したり慰めたりするものじゃなくて、傷をつけるものだ」と言っていました。何かしらの引っかき傷をつける。CMを芸術だとは思わないですけど、それでも表現されるものって、みんなの想定外のものじゃない限り本当は、認識されたことにはならないんだろうなと思います。
「大人エレベーター」(サッポロ生ビール黒ラベルのTVCM)ってそれなんですよね。僕が話を聞きたい人を呼んで、聞くという教育なんです。僕は大人の背中を格好良いと思っています。今の子どもと自分の子どもに対して自分の背中を見ろ、っていう生き方はしてないし教育もしていないけど、いい大人を見て欲しいと思うんです。いい大人っていうのはやっぱり僕がちゃんとセレクトして提示して、その人が言ったことの中に僕に響いたな、これを他の人にも聞いてほしいなっていう言葉を採集して届けていくという、それだけの作業なんです。でもそれはある意味で教育なのだと思います。
僕は北野武さんに「人間強さって何ですか?」と聞きたくて、そうしたら「鈍感さかな」って答えられたんですよね。それは僕が言っても説得力がないけれど、格好良い大人の北野さんが言うからこそ力のある言葉です。何かを見つければ、そこから新しい何かを引き出せる。それを探している50代ですね。

多田琢

CMプランナー。
1963年生まれ。1987年に大学卒業後、電通に入社。1999年、クリエイティブエージェンシー「TUGBOAT」を設立。