当たり前の事をしているだけ

村越としや #写真家

生まれは福島ですよね? どんな場所でしたか?

1980年、福島県須賀川市生まれです。福島空港の近くが実家。何もない所だから野山で駆け回るじゃないけど、牛舎や田んぼ、畑など自然と共に育ちましたよ。子供の時の印象深い話とか体験って特に何もないね。

なぜ東京に来たのですか?

家が畜産農家だったんだけど、小さい頃から牛と豚をやっていて、その影響で獣医になりたくて郡山にある日大付属の高校に入った。動物に関わる仕事に就こうと思ってたし、両親も祖父母もそれを願っていた。日大付属校に入ってそのまま日大の獣医学部に行くってルートがあるから、わざわざ私立の高校に入ったんだけど、なぜか文化服装学院に進学するという(笑)。 元々、中学の頃からファッションが好きで「Men’s NONNO」とか「FINEBOYS」が全盛期みたいな時期だったし、やっぱり華やかな世界への憧れがあったよね。郡山には当時マルイがあったからマルイ系のブランドと地元のセレクトショップとかを見て、より服が好きになっていった。その頃の考えは単純だよね。それで高校の担任の了承も得ず、両親の反対をなんとか押し切って文化服装学院の3年コースを選んで進学した。

文化服装時代はどうでしたか?

文化服装学院はすごく忙しいって聞いていたし、通学の時間が勿体無いと思って代々木に住んだんだけど、周りの環境にも人にも馴染めないし、初めての一人暮らしは生活するだけでも大変だった。高校卒業したての何も知らない、出来ない若造が新宿のど真ん中に住んで毎日ほぼ徹夜みたいなことしてたら身体も心も壊すよね。それで辞めた。

福島に戻って何をしていたのですか?

文化服装学院の入学金とか東京での家賃や生活費は親が払ってくれていたから、別の学校に行きたいってすぐ言えないじゃん? さすがにそれは。文化服装学院は辞めたけど、ファッション関係の仕事に就きたいという思いは諦めきれない自分がいたから、今度はカメラマンになろうと思った。すごく発想が単純なんだけど、雑誌とかよく見てたから、じゃあ今度は撮る側でファッションと関わろうと。自分で入学に必要な費用は稼ごうと決めて地元でアルバイトしてた。レンタルビデオ屋、おもちゃ屋、漫画喫茶とかでバイトして、一年間お金貯めて再上京。

東京写真専門学校に入学後の生活はどんな様子でした?

最初は江東区に母の姉がいるから、そこに下宿させてもらった。お金に余裕がなかったから。当時は暗室を使うのにも朝から学校に行って並ばないと予約すらできなかったから、行っても予約が取れないこともあったし、それが嫌で家に暗室作らなきゃいけないって思って、1年の後期ぐらいに浜田山に引っ越しをした。渋谷も通いやすいしね。最初に買ったのは LPL の C7700 。いまだにメインで使ってる。使い勝手がいいからね。新品をヨドバシカメラで買った。

その頃からデジタルカメラがあったと思いますが、デジタルには興味は湧かなかったのですか?

ちょうどその頃、授業でも Photoshop とかを教える授業が始まり出していたけど全く興味が沸かなかった。パソコンやりに来たんじゃないよって思って授業にもほとんど出なかった。まさかこんなデジタル時代が来るとは、当時は思ってなかった。不便なこともあるけど、今となっては過去の自分に感謝ですよ。情報過多で物が溢れた現代だと、何をするかよりも何をしないかってことのほうが大切かもね。

写真家という職業を最初に意識したのは誰ですか?

意識しだしたのは金村修さんとかかな? 情熱大陸で金村さんが特集されていた回をたまたま見たのがきっかけだったと思う。それで金村さんの写真について色々と講師に聞いてみたら、森山(大道)さんのことを教えてもらって、森山さんがヒステリックグラマーから写真集を出していたこともファッションをやりたかった僕としては強く惹かれた理由の一つ。カメラマン以外にも写真家という存在がいることを知ったのはたぶんこの時。

写真家を目指した理由は?

最初はもちろんファッションカメラマンを目指して入学して、1年生の頃は技術的なこと、暗室だったりスタジオライティングだったり一通りやってみたら、なんでも楽しいじゃん? 初めての経験だし、写真家という存在も知り、写真自体にのめり込んでいくんですよ。それで2年生のゼミをファッションではなく報道のゼミを選ぶ。報道ゼミだから何かしらテーマを持たなくちゃいけないって言われて、ファッションをやりたかった僕は写真を撮ることに対してテーマやコンセプトは特になくて、それで何となく学校にあまり行かなくなり東京都写真美術館とか蒼穹舎やPLACE Mとかのギャラリーに通うようになって独自で勉強してたのね。蒼穹舎の大田さんと話しているうちに写真編集者って生き方もあるんだって思って、一瞬、編集者になろうと思い、毎週のように大田さんに会いに行って、写真集を買ったり、話を聞いたりした。でも、せっかく写真ができる環境もあるし、テーマやコンセプトがなくても、とりあえず地方に行けば写真が撮れるってわかったから写真を続けようと思った。大田さんの周りにいた人たちが……例えばだけど、山内道雄さんはタクシーの運転手で生計を立てて、それで写真を撮っているって聞いてたから、僕もバイトしながら写真をやろうって決めた。なるべく写真に時間を使えるように就活もしなかった。

地方に行けば写真が撮れるとは?

学生の頃は無理やり撮っていたけど、僕は東京の写真がなかなか思うように撮れなくて、おそらく都市や人にそこまで興味がないから。ファッションに興味があったのに、東京の街自体には興味なかった。そもそも他人への興味が薄いのかも、ファッションやろうとしてたのに人に興味が持てないとか、最初の段階で間違ってたんだよね(笑)

カメラは色々使いました?

各メーカーのフラッグシップ機は大体、使ったんだと思う。学生の時はタチハラフィルスタンドの810とスナップ用にMakina67とRICOHのキャディを使ってたね。当時はバイトしてカメラ買って気が合わないとすぐ売っちゃう。全部を知ってちゃんと選びたいから。リー・フリードランダーやゲイリー・ウィノグランドが好きだから、安くないのにわざわざ M2 や M4 を使ってみるとか。カメラは好きだよ、やっぱり。引き伸ばし機もそうだけど、メタルとかメカっぽい物には惹かれるよね。

卒業後はどのように写真を撮影していたんですか?

展示と写真集を……今でもスタンスはほとんど変わっていないというか、意識の変化はあってもやっていることはずっと変わらない。最初の頃は日本の田舎を撮影してた。北海道から九州までを青春18切符とかで移動して、地図を見て地名が気になる所に行ったり電車のどん詰まりの所へ旅してた。人に会いたくないから(笑)

TAP Gallery設立(2009年12月)の動機は?

蒼穹舎の大田さんとの縁で僕の初個展から3回目の展示は PLACE Mでやったんだけど、新宿のギャラリーに来る人ってのは大体決まっていて、そうなってくると写真集とか作ってみても、ある程度の限界を感じて。その次に2008年にコニカミノルタプラザでやってみたのね。そうすると知らない人や写真に興味がない人、すごい数の人たちに来てもらえるし、いっぱい見てもらえる。だけどメーカー系のギャラリーだと多くても年一回出来る人のほうが少ない。しかも前もって応募などの準備もしなきゃいけないし。だったら森山(大道)さんも自主ギャラリーやってたし、自分も写真をやっていくなら自主ギャラリーを作らなくちゃって思って動き出した。

なぜ場所を清澄白河に選んだんですか?

新宿からは離れようと思ってたし、流れで来るよりも自分たちの写真を見てほしいって意識が強かったから。かといって不毛の大地でやる度胸もなかったから、当時は赤々舎、Taka Ishii Galleryなどが入っていたギャラリーコンプレックス、東京都現代美術館、無人島プロダクションがあって、立地的に良い場所なんじゃないかなって清澄白河で探しました。新宿の自主ギャラリーは雑居ビルの中にあって、すごく閉じた空間の印象があったから絶対、路面にするってことは決めました。

2015年にTAP Galleryをお辞めになりますよね? 何が理由だったんですか?

元々、TAPも2、3年継続的に発表したら辞めようと思ったんけど、震災があったから続けてたのね。福島のことを少しでも発表していきたいと思って。でも、2012年あたりから外部のギャラリーからも個展の声がかかるようになってきて、Taka Ishii Gallery(2013年) や武蔵野市立吉祥寺美術館(2014年)とかで展示して考え方が変わった。広い空間を何年かに一度埋めるのと、何ヶ月に一回小さい空間を埋めるんだったら、1年か2年に1回でも、広い空間でより多くの人に見てもらう方が、もうそろそろいいのかなって思って。もちろん展示をやらせてもらえる確証なんてないから、とても怖いことでもあるんだけどね。それにTAPは来る人が固定してきたからね、それはとても嬉しいことなんだけど、それが当時の限界みたいに思えちゃって、自分でも次のステップに進みたいと思っていたし。

美術館などの大規模な会場、自主ギャラリーのような小規模の会場、それぞれで展示をしてみて、思うことは何でしょうか?

写真の耐久度。ただの紙に強さを持たせることは大事だなって思った。自主ギャラリーはやっぱり最終的な発表の場所ではなくて、体力作りの場所だったと思う。美術館に収蔵されてる歴史的な写真と自分の写真が同列に並べられたときの自分の写真の弱さに愕然としてしまって。もちろん当時は最高にいいと思っている写真を展示して、それを収蔵してもらったのに、こんな写真で良かったのか? もっといけたんじゃないか? って、当時の僕も常に頑張ってはいたはずなんだけど、もっともっとできたんじゃないかって、今でも思う。美術館に収蔵されてから、もしかしたら何百年、何千年後も残る可能性があると考えたときに写真だけじゃなく色々な事や物に対する考え方が変わったよね。今、生きているうちは言い訳だったり付け足しが出来るけど、写真と撮影年とキャプションぐらいで、何かを残していく、何かを伝えることができる、何かを思ってもらう、とか、本人がいなくなってもからも、残り続けるということはすごいことだと思ったわけ。美術館での展示をすると、少しでも多くの写真を美術館に収蔵してもらいたくなるよね。誰かに認められないと収蔵はされないとか、それを企画展やコレクション展を機会に展示をしてもらうとか、展示を見た人に何かを思ってもらうとか、いくつものハードルを越えていく。そのためにはとても強い写真の強度が必要だなと思った。プリントの質や写っているもの、何で撮ったのかとかはもちろんなんだけど、どうしたら強い写真になるのか、これが解れば苦労はないんだけどね。

自分の作品の転機は何だと思いますか?

簡単にいうと震災ですよ。震災がなかったら僕は今も何となく気ままに日本の田舎を旅して、撮影していただけだと思う。震災後は福島を撮影しているけど、まず福島の写真ってだけで今でもファクターが入る。それが良いことなのか、良くないことなのか、見る側になるべく委ねて、僕はあまり気にしないようにしている。僕がこの先の福島を見続けたい、撮り続けたいと思っても、廃炉とか自分が生きてるうちにかたのつかないことが身近で起こっていること。放射性物質のプルトニウム239は半減期が24000年とか知ったときに時間の価値観が変わったよね。震災後に地元の縄文時代の遺跡が見つかった場所を撮影する機会もあったから、前のことも先のことも、自分が経験しない、できないことでも、残ってさえいれば、何らかの体験はできることがわかったし。だから、より美術館や博物館に残して、自分が何をしていたかってことを後世に残せるようにしたい。

村越さんは写真の仕事はしないのですか?

くれば何でもしますよ。できることは。基本的に来るものは拒まずですよ。でも来ないね。やってると思われてないし窓口もないしね。

好きな写真家は?

小島一郎さん、柳沢信さん、鈴木 清さんかな、生きてる人は恥ずかしいので言いません。写真集は蒼穹舎が好きで、だから僕も蒼穹舎から写真集を出させてもらった。海外だったらダイアン・アーバスやゲイリー・ウィノグランドが好き、最初の頃に受けた衝撃って大きいんだと思う。多くの写真集を見ている方がだと思うけど、暇なときとかに見てしまうのは、この2人が多いかな、あとルイス・バルツとか。

タイトルはどのように付けますか?

写真を説明するためにタイトルを付けてるんじゃなくて、タイトルも一枚の写真に近い気がするのね。僕の写真って何かを撮ってます、じゃないじゃん?タイトルを聞いて思い浮かべたそれぞれのものが、写真への導入になる。だから、タイトルも写真なんだよね。全部を示すものじゃなくて、導入として言葉があるだけ。

新作、旧作の作品類似性に関しては、どのようにお考えですか?

とても良いことで、新作を見て旧作を思い出したり、昔の写真集を見て今の作品に通じるものがあるって感じたりするというのは、目や思考に一貫性があることだと思う。引き出しが多いタイプじゃないから、それが強みでもある。

学校で先生をされていますが、気が付いたことなどありますか?

写真の原理とかを言葉で教えるのは僕も勉強になるよね。若い世代が写真をやっていかないと上の世代は絶対枯れていっちゃうんですよ。だから、若手育成ではないですけど、TAPの頃からそうで、若者がちゃんとした正しい道を歩めるようにしたいと思う。正しい道っていうのはそれぞれだから、僕自身がしっかり自分の道を歩くことが大切なんですよね。それをこれから写真をやりたいって人が無垢な目で見たときに、恥じない、カッコ悪くない生き方をしないとなと思います。

現在はどうのように生計を立ててるんですか?

基本は学校からの給与ですよ。給与所得です。

作品はコンスタントには売れてるんですか?

コンスタントには売れてない。写真展やフェアがないとびっくりするぐらい売れないよ。知名度がない作家は発表の機会がないと厳しい。そんなこと書いちゃったら夢がなくてダメだと思うけど。

同世代の写真家たちはどう思ってますか?

皆、色々なことにチャレンジしていてすごいと思う。特に山谷くん(山谷祐介 写真家)とか。ある意味エンターテイナーですからね、とても僕にはできないことをしている。

写真を撮るということに対して、どのように考えていますか?

写真を撮るってことは今は普通じゃん? 皆、スマホ持ってるのは当たり前、多くの人がデジカメも持ったりしてるじゃない。僕は写真を撮ってます! ということ自体をわざわざ宣言することがおかしな時代なのに、わざわざ写真学校に来て若い貴重な何年かを過ごすのに意識が低い人がとても多いわけ。僕たちの時は写真がブームだから何かまだ希望や憧れみたいなのがあったんだけど、今の子たちは何に憧れて、何に希望を持って写真をやっているのか、ちょっと分かりにくいかな。簡単に誰でもできるんだよね。写真を撮る事も個人的にそれを残すことも簡単にできるからね、わざわざ写真家と名乗ったりして写真をやるってことに何の意味があるのかとか、何を求めてるかってことが知りたいよね。

写真家という言葉がご自身の今までの生き方に相応しいと思っていますか?

自分で写真家って言うようにしたのはここ最近なんだけど、あまりにも色々な人から写真家って紹介されるから。写真家っていうのは本当に自分で言っていいものかどうかもわかんないしね。僕なんかより SNS とかですごくたくさんの人に写真を見てもらってる人が今の時代にはいっぱいいるわけじゃない。それなのに写真展やっても100人とか200人ぐらいしか来ない人が写真家と言って、それはなんなんだって思ったりもするし。写真家って名乗っている人のほとんどが別の職業をやっていたりするわけだから、写真家って何なんだろうねって常に思っている。免許とかないわけだから、自分は写真家だって軽々しく名乗れる人はなんか怖いよね。写真家とかフォトグラファーとかカメラマンとかアーティストとか、色々あるけど、何て名乗るか問題は難しいよね(笑)

美術家やアーティストが方法として使う写真に関してはどう思っていますか?

美術家やアーティストはしっかりとしたコンセプトがあって写真を使うイメージ。それは考えを具現化する道具として。レシピさえしっかり残れば、それは必ずしも写真として残らなくて良いものだと思う。もちろん写真を使うことでできることを意図的にやっている人もいるから一概には言えないと思うけど。カメラの使い勝手がよくなったから使っているという人たちは、カメラより使い勝手がより良い道具ができたらそれを使うでしょ。カメラはしょせん道具なんだから。元々、写真をやる人だけの物じゃないしね。ただ、僕のように写真をやるために写真をしている人、写真を残すために写真をしている人にとっては、レシピだけが残ってもそれは何の意味もなくなる可能性があるから。スタートの位置が最初から違うもの。それを声を大にして言う必要はないし、これは僕個人がそう感じているだけで、専門的に美術を学んだことがないただの素人だからあんまり適当なことを言うと色々な所から攻撃が来るよ(笑)。

写真集に対してはどのような想いがありますか?

写真集はそれ自体でも作品で、プリントも写真集もどちらも写真なんですよ。元々、写真集が好きってのもあるし、プリントと違い写真集は出してしまえば勝手に広がり残っていくもの。しかも、多くの人の手元に置くことができる。まあ多くても1000とかだけど。ほんとに欲しい人が500人とか1000人いれば良いなと思ってる。知らない人の手に渡って欲しいから、部数の少ないものはなるべく知り合いには買って欲しくないね。知り合いしか持ってない写真集って悲しいじゃん。あと出版ってとても面白いから本作りが趣味的な部分も大きいかもね、装丁も含めて。在庫は宝だと思ってますよ。写真集のデザイナーは出版社と相談したりとか知り合って一緒にやってみたいと思ってお願いしたりとか。やりたかった田中義久さんと仕事できたからな〜。今度は町口覚さんとやりたいな。僕から仕事としてお願いするんじゃなくて何かのきっかけでバチっとできるタイミングか、出版社の人が僕の写真を見て、これは町口さんが良いんじゃない?ってなったときが良い。

話を聞いてみたい人はいますか?

とても抽象的な話なんだけど、時間を超えて、さらに無礼講みたいな感じで、お互いの思考と思考だけで森山さんとちゃんと喋ってみたい。できれば20代の僕と20代の森山さんとか。現実だとリスペクトの心が強いから言葉を取り繕ってしまうし、本当に知りたいこと、聞きたいことはなかなか聞けないじゃん?
僕は40歳なんだけど、森山さんが40歳のとき3ヶ月間、札幌に移住してるんだよね。その時の話とか聞いてみたいよ。

人にアドバイスは求めますか?

世間や他人のことなんて気にしてたら自分の写真じゃなくなっちゃうよね。だから自分の作品は出来上がるまでは誰にも見せない。誰かの意見を聞くとどうしてもその人のエッセンスが入っちゃうじゃん。売れたいんだったら色々な意見を聞くのも良いけど、自分の写真として残したいんだったら違うよね。

同世代で写真をしていると思う人はいますか?

言わない(笑)でも同世代にも尊敬できる人はたくさんいる。ただ、僕は写真をやっている人の中で写真にどれだけ時間を使ってるかって言われたら、僕はトップレベルだと思う。写真展見たり写真集見たり写真撮ったりプリントしたり、写真は時間を使った分だけ、その人が行きたいところまで連れて行ってくれると思いますよ。まぁ使い方もあると思うけど。周りを見ると「自分、頑張ってます」って言う人とか態度の人が多いよね。僕は絶対、自分が頑張ってるとか言わないし、そういう態度も見せないよ、当たり前のことしてるだけだから。

今回の企画、受けてくれてありがとうございました。

誰かに会うって大事なことだから。こんな時代だからこそ、大きな社会問題に目を向けて新しいテーマで写真を撮るよりも、好きな人に会って生きた話を聞く方が身になるし、自分のためになると思う。無理に背伸びをしてもすぐに疲れちゃうから。それに誰かにやれって言われてるわけじゃないんだし、自分の興味がないことをやってもしょうがないよね。

村越としや
1980年福島県須賀川市生まれ。主な受賞歴に、日本写真協会賞新人賞(2011年)、さがみはら写真新人奨励賞(2015年)。東京国立近代美術館、サンフランシスコ近代美術館、福島県立博物館、相模原市に作品が収蔵されている。
【主な個展】
2008 「timelessness」@コニカミノルタプラザ
2009 「uncertain」@新宿ニコンサロン
2012 「草をふむ音」@福島空港
2014 「火の粉は風に舞い上がる」@武蔵野市立吉祥寺美術館
2016 「沈黙の中身はすべて言葉だった」@タカイシイギャラリー フォトグラフィ / フィルム
2018 「濡れた地面はやがて水たまりに変わる」@タカイシイギャラリー フォトグラフィ / フィルム
2020 「Remaining」@shelter people
【収蔵】
東京国立近代美術館
サンフランシスコ近代美術館
相模原市
福島県立博物館

Photo:Masaou Yamaji
Video:Ryo Kamijo
Text:Makiko Namie, Makoto Nakamori

当たり前の事をしているだけ

村越としや #写真家

生まれは福島ですよね? どんな場所でしたか?

1980年、福島県須賀川市生まれです。福島空港の近くが実家。何もない所だから野山で駆け回るじゃないけど、牛舎や田んぼ、畑など自然と共に育ちましたよ。子供の時の印象深い話とか体験って特に何もないね。

なぜ東京に来たのですか?

家が畜産農家だったんだけど、小さい頃から牛と豚をやっていて、その影響で獣医になりたくて郡山にある日大付属の高校に入った。動物に関わる仕事に就こうと思ってたし、両親も祖父母もそれを願っていた。日大付属校に入ってそのまま日大の獣医学部に行くってルートがあるから、わざわざ私立の高校に入ったんだけど、なぜか文化服装学院に進学するという(笑)。 元々、中学の頃からファッションが好きで「Men’s NONNO」とか「FINEBOYS」が全盛期みたいな時期だったし、やっぱり華やかな世界への憧れがあったよね。郡山には当時マルイがあったからマルイ系のブランドと地元のセレクトショップとかを見て、より服が好きになっていった。その頃の考えは単純だよね。それで高校の担任の了承も得ず、両親の反対をなんとか押し切って文化服装学院の3年コースを選んで進学した。

文化服装時代はどうでしたか?

文化服装学院はすごく忙しいって聞いていたし、通学の時間が勿体無いと思って代々木に住んだんだけど、周りの環境にも人にも馴染めないし、初めての一人暮らしは生活するだけでも大変だった。高校卒業したての何も知らない、出来ない若造が新宿のど真ん中に住んで毎日ほぼ徹夜みたいなことしてたら身体も心も壊すよね。それで辞めた。

福島に戻って何をしていたのですか?

文化服装学院の入学金とか東京での家賃や生活費は親が払ってくれていたから、別の学校に行きたいってすぐ言えないじゃん? さすがにそれは。文化服装学院は辞めたけど、ファッション関係の仕事に就きたいという思いは諦めきれない自分がいたから、今度はカメラマンになろうと思った。すごく発想が単純なんだけど、雑誌とかよく見てたから、じゃあ今度は撮る側でファッションと関わろうと。自分で入学に必要な費用は稼ごうと決めて地元でアルバイトしてた。レンタルビデオ屋、おもちゃ屋、漫画喫茶とかでバイトして、一年間お金貯めて再上京。

東京写真専門学校に入学後の生活はどんな様子でした?

最初は江東区に母の姉がいるから、そこに下宿させてもらった。お金に余裕がなかったから。当時は暗室を使うのにも朝から学校に行って並ばないと予約すらできなかったから、行っても予約が取れないこともあったし、それが嫌で家に暗室作らなきゃいけないって思って、1年の後期ぐらいに浜田山に引っ越しをした。渋谷も通いやすいしね。最初に買ったのは LPL の C7700 。いまだにメインで使ってる。使い勝手がいいからね。新品をヨドバシカメラで買った。

その頃からデジタルカメラがあったと思いますが、デジタルには興味は湧かなかったのですか?

ちょうどその頃、授業でも Photoshop とかを教える授業が始まり出していたけど全く興味が沸かなかった。パソコンやりに来たんじゃないよって思って授業にもほとんど出なかった。まさかこんなデジタル時代が来るとは、当時は思ってなかった。不便なこともあるけど、今となっては過去の自分に感謝ですよ。情報過多で物が溢れた現代だと、何をするかよりも何をしないかってことのほうが大切かもね。

写真家という職業を最初に意識したのは誰ですか?

意識しだしたのは金村修さんとかかな? 情熱大陸で金村さんが特集されていた回をたまたま見たのがきっかけだったと思う。それで金村さんの写真について色々と講師に聞いてみたら、森山(大道)さんのことを教えてもらって、森山さんがヒステリックグラマーから写真集を出していたこともファッションをやりたかった僕としては強く惹かれた理由の一つ。カメラマン以外にも写真家という存在がいることを知ったのはたぶんこの時。

写真家を目指した理由は?

最初はもちろんファッションカメラマンを目指して入学して、1年生の頃は技術的なこと、暗室だったりスタジオライティングだったり一通りやってみたら、なんでも楽しいじゃん? 初めての経験だし、写真家という存在も知り、写真自体にのめり込んでいくんですよ。それで2年生のゼミをファッションではなく報道のゼミを選ぶ。報道ゼミだから何かしらテーマを持たなくちゃいけないって言われて、ファッションをやりたかった僕は写真を撮ることに対してテーマやコンセプトは特になくて、それで何となく学校にあまり行かなくなり東京都写真美術館とか蒼穹舎やPLACE Mとかのギャラリーに通うようになって独自で勉強してたのね。蒼穹舎の大田さんと話しているうちに写真編集者って生き方もあるんだって思って、一瞬、編集者になろうと思い、毎週のように大田さんに会いに行って、写真集を買ったり、話を聞いたりした。でも、せっかく写真ができる環境もあるし、テーマやコンセプトがなくても、とりあえず地方に行けば写真が撮れるってわかったから写真を続けようと思った。大田さんの周りにいた人たちが……例えばだけど、山内道雄さんはタクシーの運転手で生計を立てて、それで写真を撮っているって聞いてたから、僕もバイトしながら写真をやろうって決めた。なるべく写真に時間を使えるように就活もしなかった。

地方に行けば写真が撮れるとは?

学生の頃は無理やり撮っていたけど、僕は東京の写真がなかなか思うように撮れなくて、おそらく都市や人にそこまで興味がないから。ファッションに興味があったのに、東京の街自体には興味なかった。そもそも他人への興味が薄いのかも、ファッションやろうとしてたのに人に興味が持てないとか、最初の段階で間違ってたんだよね(笑)

カメラは色々使いました?

各メーカーのフラッグシップ機は大体、使ったんだと思う。学生の時はタチハラフィルスタンドの810とスナップ用にMakina67とRICOHのキャディを使ってたね。当時はバイトしてカメラ買って気が合わないとすぐ売っちゃう。全部を知ってちゃんと選びたいから。リー・フリードランダーやゲイリー・ウィノグランドが好きだから、安くないのにわざわざ M2 や M4 を使ってみるとか。カメラは好きだよ、やっぱり。引き伸ばし機もそうだけど、メタルとかメカっぽい物には惹かれるよね。

卒業後はどのように写真を撮影していたんですか?

展示と写真集を……今でもスタンスはほとんど変わっていないというか、意識の変化はあってもやっていることはずっと変わらない。最初の頃は日本の田舎を撮影してた。北海道から九州までを青春18切符とかで移動して、地図を見て地名が気になる所に行ったり電車のどん詰まりの所へ旅してた。人に会いたくないから(笑)

TAP Gallery設立(2009年12月)の動機は?

蒼穹舎の大田さんとの縁で僕の初個展から3回目の展示は PLACE Mでやったんだけど、新宿のギャラリーに来る人ってのは大体決まっていて、そうなってくると写真集とか作ってみても、ある程度の限界を感じて。その次に2008年にコニカミノルタプラザでやってみたのね。そうすると知らない人や写真に興味がない人、すごい数の人たちに来てもらえるし、いっぱい見てもらえる。だけどメーカー系のギャラリーだと多くても年一回出来る人のほうが少ない。しかも前もって応募などの準備もしなきゃいけないし。だったら森山(大道)さんも自主ギャラリーやってたし、自分も写真をやっていくなら自主ギャラリーを作らなくちゃって思って動き出した。

なぜ場所を清澄白河に選んだんですか?

新宿からは離れようと思ってたし、流れで来るよりも自分たちの写真を見てほしいって意識が強かったから。かといって不毛の大地でやる度胸もなかったから、当時は赤々舎、Taka Ishii Galleryなどが入っていたギャラリーコンプレックス、東京都現代美術館、無人島プロダクションがあって、立地的に良い場所なんじゃないかなって清澄白河で探しました。新宿の自主ギャラリーは雑居ビルの中にあって、すごく閉じた空間の印象があったから絶対、路面にするってことは決めました。

2015年にTAP Galleryをお辞めになりますよね? 何が理由だったんですか?

元々、TAPも2、3年継続的に発表したら辞めようと思ったんけど、震災があったから続けてたのね。福島のことを少しでも発表していきたいと思って。でも、2012年あたりから外部のギャラリーからも個展の声がかかるようになってきて、Taka Ishii Gallery(2013年) や武蔵野市立吉祥寺美術館(2014年)とかで展示して考え方が変わった。広い空間を何年かに一度埋めるのと、何ヶ月に一回小さい空間を埋めるんだったら、1年か2年に1回でも、広い空間でより多くの人に見てもらう方が、もうそろそろいいのかなって思って。もちろん展示をやらせてもらえる確証なんてないから、とても怖いことでもあるんだけどね。それにTAPは来る人が固定してきたからね、それはとても嬉しいことなんだけど、それが当時の限界みたいに思えちゃって、自分でも次のステップに進みたいと思っていたし。

美術館などの大規模な会場、自主ギャラリーのような小規模の会場、それぞれで展示をしてみて、思うことは何でしょうか?

写真の耐久度。ただの紙に強さを持たせることは大事だなって思った。自主ギャラリーはやっぱり最終的な発表の場所ではなくて、体力作りの場所だったと思う。美術館に収蔵されてる歴史的な写真と自分の写真が同列に並べられたときの自分の写真の弱さに愕然としてしまって。もちろん当時は最高にいいと思っている写真を展示して、それを収蔵してもらったのに、こんな写真で良かったのか? もっといけたんじゃないか? って、当時の僕も常に頑張ってはいたはずなんだけど、もっともっとできたんじゃないかって、今でも思う。美術館に収蔵されてから、もしかしたら何百年、何千年後も残る可能性があると考えたときに写真だけじゃなく色々な事や物に対する考え方が変わったよね。今、生きているうちは言い訳だったり付け足しが出来るけど、写真と撮影年とキャプションぐらいで、何かを残していく、何かを伝えることができる、何かを思ってもらう、とか、本人がいなくなってもからも、残り続けるということはすごいことだと思ったわけ。美術館での展示をすると、少しでも多くの写真を美術館に収蔵してもらいたくなるよね。誰かに認められないと収蔵はされないとか、それを企画展やコレクション展を機会に展示をしてもらうとか、展示を見た人に何かを思ってもらうとか、いくつものハードルを越えていく。そのためにはとても強い写真の強度が必要だなと思った。プリントの質や写っているもの、何で撮ったのかとかはもちろんなんだけど、どうしたら強い写真になるのか、これが解れば苦労はないんだけどね。

自分の作品の転機は何だと思いますか?

簡単にいうと震災ですよ。震災がなかったら僕は今も何となく気ままに日本の田舎を旅して、撮影していただけだと思う。震災後は福島を撮影しているけど、まず福島の写真ってだけで今でもファクターが入る。それが良いことなのか、良くないことなのか、見る側になるべく委ねて、僕はあまり気にしないようにしている。僕がこの先の福島を見続けたい、撮り続けたいと思っても、廃炉とか自分が生きてるうちにかたのつかないことが身近で起こっていること。放射性物質のプルトニウム239は半減期が24000年とか知ったときに時間の価値観が変わったよね。震災後に地元の縄文時代の遺跡が見つかった場所を撮影する機会もあったから、前のことも先のことも、自分が経験しない、できないことでも、残ってさえいれば、何らかの体験はできることがわかったし。だから、より美術館や博物館に残して、自分が何をしていたかってことを後世に残せるようにしたい。

村越さんは写真の仕事はしないのですか?

くれば何でもしますよ。できることは。基本的に来るものは拒まずですよ。でも来ないね。やってると思われてないし窓口もないしね。

好きな写真家は?

小島一郎さん、柳沢信さん、鈴木 清さんかな、生きてる人は恥ずかしいので言いません。写真集は蒼穹舎が好きで、だから僕も蒼穹舎から写真集を出させてもらった。海外だったらダイアン・アーバスやゲイリー・ウィノグランドが好き、最初の頃に受けた衝撃って大きいんだと思う。多くの写真集を見ている方がだと思うけど、暇なときとかに見てしまうのは、この2人が多いかな、あとルイス・バルツとか。

タイトルはどのように付けますか?

写真を説明するためにタイトルを付けてるんじゃなくて、タイトルも一枚の写真に近い気がするのね。僕の写真って何かを撮ってます、じゃないじゃん?タイトルを聞いて思い浮かべたそれぞれのものが、写真への導入になる。だから、タイトルも写真なんだよね。全部を示すものじゃなくて、導入として言葉があるだけ。

新作、旧作の作品類似性に関しては、どのようにお考えですか?

とても良いことで、新作を見て旧作を思い出したり、昔の写真集を見て今の作品に通じるものがあるって感じたりするというのは、目や思考に一貫性があることだと思う。引き出しが多いタイプじゃないから、それが強みでもある。

学校で先生をされていますが、気が付いたことなどありますか?

写真の原理とかを言葉で教えるのは僕も勉強になるよね。若い世代が写真をやっていかないと上の世代は絶対枯れていっちゃうんですよ。だから、若手育成ではないですけど、TAPの頃からそうで、若者がちゃんとした正しい道を歩めるようにしたいと思う。正しい道っていうのはそれぞれだから、僕自身がしっかり自分の道を歩くことが大切なんですよね。それをこれから写真をやりたいって人が無垢な目で見たときに、恥じない、カッコ悪くない生き方をしないとなと思います。

現在はどうのように生計を立ててるんですか?

基本は学校からの給与ですよ。給与所得です。

作品はコンスタントには売れてるんですか?

コンスタントには売れてない。写真展やフェアがないとびっくりするぐらい売れないよ。知名度がない作家は発表の機会がないと厳しい。そんなこと書いちゃったら夢がなくてダメだと思うけど。

同世代の写真家たちはどう思ってますか?

皆、色々なことにチャレンジしていてすごいと思う。特に山谷くん(山谷祐介 写真家)とか。ある意味エンターテイナーですからね、とても僕にはできないことをしている。

写真を撮るということに対して、どのように考えていますか?

写真を撮るってことは今は普通じゃん? 皆、スマホ持ってるのは当たり前、多くの人がデジカメも持ったりしてるじゃない。僕は写真を撮ってます! ということ自体をわざわざ宣言することがおかしな時代なのに、わざわざ写真学校に来て若い貴重な何年かを過ごすのに意識が低い人がとても多いわけ。僕たちの時は写真がブームだから何かまだ希望や憧れみたいなのがあったんだけど、今の子たちは何に憧れて、何に希望を持って写真をやっているのか、ちょっと分かりにくいかな。簡単に誰でもできるんだよね。写真を撮る事も個人的にそれを残すことも簡単にできるからね、わざわざ写真家と名乗ったりして写真をやるってことに何の意味があるのかとか、何を求めてるかってことが知りたいよね。

写真家という言葉がご自身の今までの生き方に相応しいと思っていますか?

自分で写真家って言うようにしたのはここ最近なんだけど、あまりにも色々な人から写真家って紹介されるから。写真家っていうのは本当に自分で言っていいものかどうかもわかんないしね。僕なんかより SNS とかですごくたくさんの人に写真を見てもらってる人が今の時代にはいっぱいいるわけじゃない。それなのに写真展やっても100人とか200人ぐらいしか来ない人が写真家と言って、それはなんなんだって思ったりもするし。写真家って名乗っている人のほとんどが別の職業をやっていたりするわけだから、写真家って何なんだろうねって常に思っている。免許とかないわけだから、自分は写真家だって軽々しく名乗れる人はなんか怖いよね。写真家とかフォトグラファーとかカメラマンとかアーティストとか、色々あるけど、何て名乗るか問題は難しいよね(笑)

美術家やアーティストが方法として使う写真に関してはどう思っていますか?

美術家やアーティストはしっかりとしたコンセプトがあって写真を使うイメージ。それは考えを具現化する道具として。レシピさえしっかり残れば、それは必ずしも写真として残らなくて良いものだと思う。もちろん写真を使うことでできることを意図的にやっている人もいるから一概には言えないと思うけど。カメラの使い勝手がよくなったから使っているという人たちは、カメラより使い勝手がより良い道具ができたらそれを使うでしょ。カメラはしょせん道具なんだから。元々、写真をやる人だけの物じゃないしね。ただ、僕のように写真をやるために写真をしている人、写真を残すために写真をしている人にとっては、レシピだけが残ってもそれは何の意味もなくなる可能性があるから。スタートの位置が最初から違うもの。それを声を大にして言う必要はないし、これは僕個人がそう感じているだけで、専門的に美術を学んだことがないただの素人だからあんまり適当なことを言うと色々な所から攻撃が来るよ(笑)。

写真集に対してはどのような想いがありますか?

写真集はそれ自体でも作品で、プリントも写真集もどちらも写真なんですよ。元々、写真集が好きってのもあるし、プリントと違い写真集は出してしまえば勝手に広がり残っていくもの。しかも、多くの人の手元に置くことができる。まあ多くても1000とかだけど。ほんとに欲しい人が500人とか1000人いれば良いなと思ってる。知らない人の手に渡って欲しいから、部数の少ないものはなるべく知り合いには買って欲しくないね。知り合いしか持ってない写真集って悲しいじゃん。あと出版ってとても面白いから本作りが趣味的な部分も大きいかもね、装丁も含めて。在庫は宝だと思ってますよ。写真集のデザイナーは出版社と相談したりとか知り合って一緒にやってみたいと思ってお願いしたりとか。やりたかった田中義久さんと仕事できたからな〜。今度は町口覚さんとやりたいな。僕から仕事としてお願いするんじゃなくて何かのきっかけでバチっとできるタイミングか、出版社の人が僕の写真を見て、これは町口さんが良いんじゃない?ってなったときが良い。

話を聞いてみたい人はいますか?

とても抽象的な話なんだけど、時間を超えて、さらに無礼講みたいな感じで、お互いの思考と思考だけで森山さんとちゃんと喋ってみたい。できれば20代の僕と20代の森山さんとか。現実だとリスペクトの心が強いから言葉を取り繕ってしまうし、本当に知りたいこと、聞きたいことはなかなか聞けないじゃん?
僕は40歳なんだけど、森山さんが40歳のとき3ヶ月間、札幌に移住してるんだよね。その時の話とか聞いてみたいよ。

人にアドバイスは求めますか?

世間や他人のことなんて気にしてたら自分の写真じゃなくなっちゃうよね。だから自分の作品は出来上がるまでは誰にも見せない。誰かの意見を聞くとどうしてもその人のエッセンスが入っちゃうじゃん。売れたいんだったら色々な意見を聞くのも良いけど、自分の写真として残したいんだったら違うよね。

同世代で写真をしていると思う人はいますか?

言わない(笑)でも同世代にも尊敬できる人はたくさんいる。ただ、僕は写真をやっている人の中で写真にどれだけ時間を使ってるかって言われたら、僕はトップレベルだと思う。写真展見たり写真集見たり写真撮ったりプリントしたり、写真は時間を使った分だけ、その人が行きたいところまで連れて行ってくれると思いますよ。まぁ使い方もあると思うけど。周りを見ると「自分、頑張ってます」って言う人とか態度の人が多いよね。僕は絶対、自分が頑張ってるとか言わないし、そういう態度も見せないよ、当たり前のことしてるだけだから。

今回の企画、受けてくれてありがとうございました。

誰かに会うって大事なことだから。こんな時代だからこそ、大きな社会問題に目を向けて新しいテーマで写真を撮るよりも、好きな人に会って生きた話を聞く方が身になるし、自分のためになると思う。無理に背伸びをしてもすぐに疲れちゃうから。それに誰かにやれって言われてるわけじゃないんだし、自分の興味がないことをやってもしょうがないよね。

村越としや
1980年福島県須賀川市生まれ。主な受賞歴に、日本写真協会賞新人賞(2011年)、さがみはら写真新人奨励賞(2015年)。東京国立近代美術館、サンフランシスコ近代美術館、福島県立博物館、相模原市に作品が収蔵されている。
【主な個展】
2008 「timelessness」@コニカミノルタプラザ
2009 「uncertain」@新宿ニコンサロン
2012 「草をふむ音」@福島空港
2014 「火の粉は風に舞い上がる」@武蔵野市立吉祥寺美術館
2016 「沈黙の中身はすべて言葉だった」@タカイシイギャラリー フォトグラフィ / フィルム
2018 「濡れた地面はやがて水たまりに変わる」@タカイシイギャラリー フォトグラフィ / フィルム
2020 「Remaining」@shelter people
【収蔵】
東京国立近代美術館
サンフランシスコ近代美術館
相模原市
福島県立博物館

Photo:Masaou Yamaji
Video:Ryo Kamijo
Text:Makiko Namie, Makoto Nakamori