間違ったことをやればいい

かせきさいだぁ #ヒップホップアーティスト

かせきさいだぁの言葉に
自分の中の、「記憶」を重ねていく。
梅雨が明けた。好きなことをしよう。

ーかせきさいだぁさんはなんと呼ばれることが多いですか?

かせきさんが多いですね。時々、さいだぁさんと呼ぶ方もいます。

ー町に囚われていると気がついたきっかけはなんだったんですか?

小学生のとき生徒会長をやらされていたんです。学校行事の際、会長挨拶をするんですね。事前に原稿用紙約1.5枚分の原稿を書いて、先生に校正してもらったものを家のラジカセで録音、丸暗記してチェック。それをひたすら繰り返すんです。紙見ながらじゃダメだって言われて。中学になっても生徒会の活動で、自分の時間が一切取れなくなった。小学生のとき先生に文句を言ったら、メチャクチャに怒られました。
中学で進路相談のときには「加藤、お前はこの町の高校に行け。地元の学校に入って地元の役場に入って、ゆくゆくはお前が町長になってみんなを引っ張って行け」って言われたんです。もう怖くなって、これはなんとかこの町から逃げ出さないとダメだと思ったんです。

ーなかなかすごい話ですね。

大人になってから、親に「こんなことあったよね」と話すと全く覚えてなかったんです。当時、本当に死ぬしかないって思っていたのに(笑)。
僕は子どものときから、プラモデルと釣りと犬の散歩が好きでした。それら一切できなくなったのが嫌で嫌で堪らなかった。このままじゃヤバい、とんでもなく遠くの学校に行こうと思って、家から2時間近くかかる清水市の高校に行ったんです。入学してから1年間は毎日プラモデルを作っていました。

ーそれで高校生から下宿生活になるんですね。どんな思い出がありますか?

下宿では食堂でご飯を食べるんですが、それまで愛情込めて作ってくれていた母親の料理がどれほど美味しかったのかが身に沁みてわかりました。
下宿のご飯の代わりにと親にお弁当用のお小遣いをもらっていたんですが、全部プラモデルと漫画に注ぎ込んでいました(笑)。食べるものに全く執着がなくて、毎日1リットルのコカ・コーラをひたすら飲んでいて、盲腸になって病院に行ったとき黒い液体を大量に吐いて病院の先生や看護婦さんに驚かれました。コーラですけどね。

ーヒップホップの存在を認識したのはどのようなときだったのでしょうか?

『ザ・ベストテン』『ザ・トップテン』といった番組を下宿のみんなでよく見ていて、下宿の食堂で風見慎吾の『涙のtake a chance』を踊っている先輩がいたんですね。
その人に「ブレイクダンスの有名なチームが駐車場で練習しているから行ってみようぜ」って誘われて。見に行くと、どでかいラジカセでヒップホップ流して踊っていたんです。こんな世界があるんだな~、でも踊りより、この音楽かっこいい、何だろうって思いました。

ー音楽は好きだったんですか?

中学までは松田聖子ばかり聴いてました。ある日、友人とディスコに行ったら、そこで流れるヒップホップがかっこよくて、この感じは好きだなと。ビートに合わせて何か言っているのがすごくかっこいい。言葉をのせているのが。
そんなとき、Run-D.M.C. が出てきて、「Raising Hell」を永遠に聴いていました。最初はどこで曲が切れているのかもわからない。でもずっと聴いていたら、すごく面白いぞと思うようになりました。
それにRun-D.M.C. の写真を見たら上下ジャージ。ジャージがオシャレになるということに衝撃を受けました。中学時代サッカー部だった友人からアディダスのジャージを譲ってもらって、ずーっと着ていましたね。

ーどんな高校生活でしたか?

絵の学校に行きたかったので、授業中はほぼ寝て、学校が終わったら絵の学校に行って23時くらいまで勉強する。絵が上手くなりたい。それで道が拓けていったら嬉しいなって漠然と思っていたんです。

ー浪人時代はどんな生活でしたか?

寝る時以外はずっと、デッサンや平面構成を描いていました。子どもの頃から絵が好きで描いてはいたんですが、こんな飽きないものがあるんだと改めて驚いたんですね。ますます絵を仕事にできればいいなと思いました。

ーその頃、好きだった画家は誰ですか?

わかりやすい人たちが大好きでした。ゴッホやウォーホール、キースへリング、ホックニー。予備校で芸術史の授業は今でも覚えています。絵もこれまでのものに影響を受けつつも新しいことをやっていくってこと。いきなり新しいものが生まれたワケじゃないっていう。

ー桑沢デザイン研究所に入学したのは何故だったんですか?

浪人時代、勉強は一切していなかったので学科試験で落ちるところもありました。でも僕には関係ない学校なんだと割り切っていたので、落ちても悔しいって思わなかった。入れてくれるところが僕の行くところだと思っていました。

ーBOSEさんとの出会いも桑沢だったんですよね?

文化祭で、ヒップホップをする奴らがいるらしいという噂を聞いて見に行ったんです。それがスチャダラパーだったんですけど、もう、すごくかっこよかった。それでBOSE(以下、ボーちゃん)に話しかけたら、すぐ仲良くなりました。家が近所だったこともあって、しょっちゅう遊びに行っていました。

ーヒップホップは「ULTIMATE DJ HANDBOOK」で勉強されていたんですか?

あの頃、いとうせいこうさん、高木完さん、藤原ヒロシさんがヒップホップの先駆者で、彼らが「ULTIMATE DJ HANDBOOK」という、ほんのちょっとしかいないヒップホップ好きのためのバイブル本を出していたんです。それを買って読んでいました。それで僕は音楽の方は人に任せようと思いました。みんなが大量に持っているレコードを、今から買ってもしょうがない。じゃあ僕は歌詞の方を頑張ろうかなと思っていました。本には韻を踏むのが大事って書いてあったんです。ボーちゃんはきちんと韻を踏んでいて、いとうせいこうさんの流れを汲んでやっていました。それを目の当たりにして、僕がそれをやっても敵わないと思っていました。

ー自分でやる衝動はどこから来ていたのでしょうか?

なぜかはわからないですけど……やっぱりマイクを持ってビートに合わせてステージに立っている奴になりたいと思ったんでしょうね。
だから、それまでラップの歌詞も書いたことなかったけど……ボーちゃんに出会ったとき、次はクリスマスイベントをやると聞いて、僕もそのライブに出させてくれって頼んだんですよね。今考えたら信じられないんですけど(笑)。でも気づいたら、自分から出たいって言っていたんですよね。桑沢在学中にラップは時々やっていたくらいです。スチャダラパーはガンガンやっていましたけど、僕はイベントがあったら、という程度。スチャダラパーがすごすぎて、これはもう敵わんって感じでしたね。

ー桑沢卒業後はゲーム制作会社に就職したんですよね?

ヒップホップで食っていこうなんて全く考えていませんでした。ヒップホップで食えるやつなんて誰もいない時代です。けど仕事しているふりしてラップの歌詞書いたり。土曜日は深夜にライブやって、日曜日は昼過ぎまで寝てるという生活でした。

ー就職してから身体の不調が表れたそうですね?

最初はドット絵の描き方が分からなくて、段々と通勤が辛くなった。会社に向かう電車に乗ると気持ち悪くなる。駅で休んでから、また向かうけどなかなか辿り着かない。お医者さんからは「身体の拒否反応ですね。やめた方がいいよ」って言われて。そうは言ってもずっと絵を描いていられる天国な職場だったので、何とかうまくドット絵が描けないものかと青い顔しながらやってましたね。
そんな時、ファミスタを作った天才プログラマーの岸本さんに、「ちょっと加藤(本名)、こういう絵を描ける?アメリカ向けのファミスタを出すから。アメリカはまるっこい絵じゃ駄目だから、球場もちょっとリアルっぽいのが欲しい。誰も描けなくて困ってるんだけど出来る?」って言われて。描けなかったらそのままクビだったんですけど……頼まれた絵をすっごい一生懸命描いて提出して、描いて提出して。それを繰り返していたら気に入ってもらえたんです。

ー並行して続けていたヒップホップは何というグループでやられていたんですか?

ナムコ時代は「TONEPAYS」。ECD さんが主催している CHECK YOUR MIKE CONTEST っていうのがあって、「TONEPAYS」で参加しました。「苦悩の人」ってはっぴいえんどの「風をあつめて」を使った曲を披露したんです。僕は優勝したと思ってました。1位発表のタイミングで一歩前に出たぐらい……けどもちろん優勝は全然違うグループでした(笑)。
あれ? って。審査員にさえ届かなかった。じゃあもう終わりじゃん、やめようかなって思いましたね。
それからしばらくは活動していたんですけど、他のメンバーがやめるタイミングもあって、僕もやめようと思ったんです。ゲーム作りに専念しようかと。
そこで川辺ヒロシくんに相談したら、お前はやめるな、俺がDJをやるから続けろ、って言ってくれました。それからは「かせきさいだぁ」という名前で活動を始めました。

ー「かせきさいだぁ」の由来は何だったんですか?

「かせきさいだぁ」という言葉は、「TONEPAYS」で最後に作った曲「土曜日のかせきさいだぁ 」に付けたのが最初なんです。
映画『時をかける少女』(大林宣彦監督)の、「土曜日の実験室!」っていうシーンが好きで。それとサイダーが好きなので「「土曜日のサイダー」にしよう、恐竜も好きなので「かせき」も入れたい。それで「土曜日のかせきさいだぁ」にしたんです。
気に入っていたので、自分の名前も「かせきさいだぁ」にしました。

ーナムコを退職されたのはどのようなタイミングだったのでしょうか?

「TONEPAYS」のメンバーが解散後デザインを始めたんです。彼が仕事をするうちあるレーベルの人と知り合いになって、その人からヒップホップのレーベルをやりたいんだけど面白い人いない? という話がきたそうで、僕のことを紹介してくれたんです。デモテープを聴いてもらったりライブを見に来てもらったら、一番最初に「かせきさいだぁ」のCDを出したいと言ってもらえて。
以前、レコーディングエンジニアをやってるIllicit Tsuboiくんが「TONEPAYS」のライブを見て、「めちゃくちゃかっこいい。加藤くんが CD を出す時は僕が絶対、全部音を録るので、連絡ください!」って言ってくれていたので、彼にお願いしました。10日間くらいで録音したと思います。でも CD 作って、よしこれで仕事辞められるぞ! なんてあるわけないです。インディーズでCD出しても出しただけです。それで食っていけるわけじゃない。ありがたいことにCDは1万枚売れました。当時の、メジャー行くでしょっていう数字です。なので次はメジャー盤も、みたいな話になり、少しずつ忙しくなって、ナムコも行けなくなってしまいました。
当初は岸本さんに一生ついていこうと思っていたんです。けど色々あって、このままだと迷惑をかけてしまうなって思い辞めました。
ナムコは辞めても、音楽で食べていけるとは全く思わなかったですね。何もなかった。貯金もほとんどなくて、よく毎月家賃を払えていたなという感じです。

ー音楽で食べていく決意はあったんですか?

決意はないです、ないですよ。
平日はナムコで働いて土日だけライブ。そんな生活が続けばいいなと思っていたんですけど、そんなわけないし。見切り発車的な…

ーファーストアルバムが好調、続いてセカンドアルバムが不調だったそうですね。

セカンドアルバムを作るとき、僕はシングル曲がいっぱい入ったアルバムにしたかったんです。なぜって、捨て曲は絶対入れたくなかったんです。お金ないのに3000円出して CD 買って、あの1曲だけかい! みたいな体験を何度もしていたんで。
松田聖子さんのアルバムは捨て曲がなくて感心していたんです。僕の尊敬する松本隆先生が手がけていたので、僕も同じように、いろんなミュージシャンと、本気の曲しか入っていないアルバムを作りたい。でもそれをヒップホップのアルバムでっていうとちょっと正気の沙汰じゃなかったのか、とにかく評判が悪かったんです。
ファーストアルバムの『かせきさいだぁ』ははっぴいえんどのヒップホップ版に挑戦した作品です。セカンドアルバムの『SKYNUTS』はティン・パン・アレーのヒップホップ版を作りたかった。シティポップスをヒップホップで表現できるかに挑戦しました。周りもすごい! と言ってくれて。
ところが、売れなかった。レコード会社に「かせきさいだぁはもう終わった」と言われるほど。これはちょっともう無理だなと。僕のやろうとしていることを誰もわかってくれていない。サードアルバムの話も出たんですけど、わかるわけがないだろうと。セカンドでわからなかったのにもっと進めるつもりよ? と思って。一応デモテープも作って、レーベルの人がいろんなレコード会社に持ち込んでくれたんですけど、どこにもこんなの出せない、って言われたそうです。本当に諦めましたね。

ーそこから13年間アルバムは出さずに様々な活動をされていましたね。いとうせいこうさんとのコラボはどうでしたか?

まず、いとうせいこうさんの継承者はスチャダラパーだと思っていたんです。ところが僕がデビューしたとき、いとうせいこうさんがコメントくれたんです。「やっと俺の継承者が現れた」って。僕はいとうせいこうさんの後継者はスチャダラパーでしょ、と思っていました。
でも会ってみると、「俺とお前は似てる。どんどんちょっとずつ変わってっちゃったり好きなことを始めちゃったり、でもまた戻ってきたり。なんかそういう部分で似ているんだ。」みたいなこと言ってくれて。そしたらやっぱりめっちゃすごいんですよ。めっちゃすごい、せいこうさんは。
これはもう吸収できることはなんでも吸収しようと思って。なんで俺にそんなに訊くんだって言われるほど、しょっちゅう質問していたんですよ。「せいこうさんこれって?」って。色々教えてくれました。
「かせきさいだぁのアニソング!! バケイション!」を出したときも、「やっぱりお前は、次に何でそれをやるんだという意外なところが、俺と似ている。」「かせきは完全にティン・パン・アレー系の流れを継承したボーカリストになった。」と賛辞をいただいて。いとうせいこうさんとの出会いは、本当にありがたかったです。

ーかせきさんの周りには面白い方々が集まってますね。

そうですね、磁石みたいに集まってくるんですね。ワタナベイビー、ボーちゃん。
最近は安齋肇さんとすごく仲良くさせてもらっています。ある時急に、「かせきくん一緒にやらない?」って言われたんです。理由を聞いたらサングラスをかけてるからだって(笑)。「僕はサングラスをかけている人と長く仕事が続くんだよね。タモリさん、みうらじゅん。他にサングラスかけている人いないかな~って探したらかせきさいだぁだ!と閃いて。」と。確かに長く続いてるんです、AnzaiCIDERってアートユニットを組んで活動してて、10年ぐらい。本当にありがたいです。

ー松本隆さんもそうですよね。

出会いはデビューしてすぐ、「僕のところに会いにきなさい」って言われたからです。
最初は怒られるんじゃないかと思ったんですが、呼ばれたところが高級な中華料理店だと知って、スキップしていきました。
それからはよく電話で「来なよ」って呼んでもらえて。それで弟子にさせてもらっていいですかって言ったら、「僕はずっと弟子を取らない主義で全員に断ってきたけど、君ならいいよ」って。しばらくして松本先生から「本当に弟子にならない? 仕事場へ車を運転したり、君に仕事も回すし、ウチに住み込みして」って。もちろん僕は「はい。ぜひ!」と返事しました。なんかわかんないんですけど、転がっていくしかないじゃないですか。それからは恋人よりも会っていたんです。1週間のうち4日は会ってご飯食べて。1ヶ月経った頃、「実はこの1ヶ月間、仕事を全部断らないで受けたんだ。もう作詞家って仕事が減ってるんだよ。君に回そうと思っていたけれど、全部できちゃったんだ。この先、作詞家という職業はなくなると思う。だから君は僕の弟子にならないで、自分の力で生き残って欲しい。歌詞の仕事もやった方がいいけど、それだけじゃ絶対食っていけないから色々やった方がいい」と、そんなことを2000年には仰っていて。それから会ってくれなくなったんです。ばったり会うことはあるんですけど。サバイバルして頑張っていきなさいと。未だに突き放されてます(笑)。会ったら仲良くしてくれるんですけどね。

ー会いたい人に会えていますか?

会えています。細野晴臣さん、大滝詠一さん、鈴木茂さん、南佳孝さん、ダブマスターXさん……もちろん自分からも会いに行きますよ。江口寿史先生や久住昌之さんには個展をされているタイミングで CD を渡しに行ったり。でも僕はもともと、会いたいって感じじゃなくて…だって思ってたような人じゃなかったら、アレ?ってなるでしょ。でも皆さん本当に思ってる以上に最高の方達でしたね。

ー上の世代から気に入られるコツってありますか?

実家が酒屋さんで、向かいの店でおばあちゃんが飲み屋やっていたんです。保育園から小学校まで毎日その飲み屋に遊びに行っていました。おじさんたちに可愛がってもらってたんですけど、それだけじゃ悔しくて笑わせたいんですよね。大人を笑わせるギャグとか、色々考えていました。そこで年上とうまくやっていくスキルを身につけたのかも。
でも年上の方と一緒に仕事をすることは怖いですよ。楽しうに見えるでしょうけど。いや実際楽しいんですけどね。一緒にやるとなると対等なんです。でも絶対、対等じゃない。向こうの方が絶対にすごいです。引き出しの数が圧倒的に違う。だから心の中では地獄だったりしますが、それよりも一緒に作業させてもらう間にとにかく吸収するっていう。そんな機会なかなかありませんから。

ー下の世代からの反応は届いていますか?

後輩を可愛がる……が苦手なんですよね。どう可愛がっていいかわからなくて…後輩たちに可愛がって貰えるのが一番いいんですけど。

ーシティポップって言葉にするとなんですか?

世の中で言われているのは、sophisticated されたアレンジってやつです。僕が思うのは、AOR やソウルを日本人がやりたくてやると、割ときっちりしたサウンドになって、それがなんか妙にシティ感を出しちゃうんじゃないかと。勝手なイメージですが、ブルーアイドソウルじゃなく、ブラックアイドソウル。そのブラックアイドソウルこそがシティポップスなんじゃないかと。

ー再始動のきっかけは何だったんですか?

RIP SLYMEが本当にポップなヒップホップをやっていて、僕の出る幕なし、もう引退だなと思ったんですが、ヒップホップでシティ感ができるのは俺だけじゃないかってことに気づいて。

ー楽しそうと言われることは多いですか?

結局隙間産業なんです。誰もやってないことをやればいいというか。誰もやってないことは、つまり間違ったことなんです。正しいことはもう誰かがやっているんです。だから間違ったことの中にヒントがある。
NHKの教育番組のために「ミスターアクシデント」という曲を作ったんです。その中に、「カニカマだって失敗から生まれたんだ」って歌詞があるんですが、間違うことが一番大事だと気づいたことから生まれた曲なんです。
自分の始まりもRun-D.M.C. みたいなヒップホップをやりたかったんですけど、できないからはっぴいえんどのヒップホップ版を作った。間違っているんですよ。絶対。でも、どこにもないものができたから、ゆくゆくは評価されたんだと思います。セカンドアルバムの『SKYnuts』という曲を作ったとき、最初は爆笑するほどダサかったんです。なので1時間かけて歌詞を書き直して録音したら一緒に曲を作っていたTsuboiくんが、「凄い良くなった!前のテイクと聴き比べてみよう」ってもう一度最初のを聴いてみたら、「いや、ちょっと待って!前のテイクこれ変だけど、聴いたことなくてかっこいいような気もしてきた。」って、そしたらすごくいい曲ができたんです。ボーちゃんがすぐ訊いてきたぐらいです。「あの曲ってどうやって作っているの?メロディーがあるようなラップ。なんなのあれ?」って。
誰もやってないことだったから、良かったんですよね。間違いから生まれて、間違うことがすごく大事だっていうことが毎回ポイントになってきました。

ー歌詞を書くときはそれを考えているんですか?

松本隆先生の歌詞をそのままサンプリングしたきっかけは、最初は似たようなものを書きたいと思ったけど、それも逆に失礼じゃないかと思いました。素晴らしい詞があるんだから、その素晴らしい詞をそのまま使うべきだって。松本先生も理解してくれて。それも間違ってるじゃないですか。人の歌詞をそのまま使うって。今思うとぞっとしますもん。

ー自分の CD はどういうときに聴かれたいと思いますか?

それはもう四六時中狂ったように聴いてもらえるのが一番いいです。

かせきさいだぁ
95年にインディーズ盤『かせきさいだぁ』、翌年メジャー盤『かせきさいだぁ』を発表。音楽以外でも4コマ漫画『ハグトン』を01年から描き続け、今ではハグトンを題材にしたアート活動にまで表現の場を拡げている。
ソラミミスト安齋肇 さんとのアートユニット「アンザイさいだぁ」でも活躍中。
11年、2ndアルバムリリースから13年ぶりとなる待望の3rdアルバム『SOUND BURGER PLANET』、12年9月には矢継ぎ早に4thアルバム『ミスターシティポップ』をリリース。13年8月には全曲アニソンカバーアルバム『かせきさいだぁのアニソング!! バケイション!』をリリース。
最新作は17年8月にリリースした5年振りのオリジナルアルバム「ONIGIRI UNIVERSITY」。18年10月にはEテレ「シャキーン!」のシャキーンミュージックに新曲「ミスターアクシデント」の書き下ろしと出演で話題に。
今年の夏には東京で初めての大規模な個展を予定。

OFFICIAL WEBSITE : http://kasekicider.com
Twitter : @kasekicider
Instagram : @kasekicider
Photo:Makoto Nakamori
Text:Makiko Namie, Makoto Nakamori

取材協力:メガネナカジマ
〒214-0012
神奈川県 川崎市 多摩区 中野島 3-14-2
電話:044-933-1343
HP : https://style-n.net
Instagram : @spectacles_nakajima

間違ったことをやればいい

かせきさいだぁ #ヒップホップアーティスト

かせきさいだぁの言葉に
自分の中の、「記憶」を重ねていく。
梅雨が明けた。好きなことをしよう。

ーかせきさいだぁさんはなんと呼ばれることが多いですか?

かせきさんが多いですね。時々、さいだぁさんと呼ぶ方もいます。

ー町に囚われていると気がついたきっかけはなんだったんですか?

小学生のとき生徒会長をやらされていたんです。学校行事の際、会長挨拶をするんですね。事前に原稿用紙約1.5枚分の原稿を書いて、先生に校正してもらったものを家のラジカセで録音、丸暗記してチェック。それをひたすら繰り返すんです。紙見ながらじゃダメだって言われて。中学になっても生徒会の活動で、自分の時間が一切取れなくなった。小学生のとき先生に文句を言ったら、メチャクチャに怒られました。
中学で進路相談のときには「加藤、お前はこの町の高校に行け。地元の学校に入って地元の役場に入って、ゆくゆくはお前が町長になってみんなを引っ張って行け」って言われたんです。もう怖くなって、これはなんとかこの町から逃げ出さないとダメだと思ったんです。

ーなかなかすごい話ですね。

大人になってから、親に「こんなことあったよね」と話すと全く覚えてなかったんです。当時、本当に死ぬしかないって思っていたのに(笑)。
僕は子どものときから、プラモデルと釣りと犬の散歩が好きでした。それら一切できなくなったのが嫌で嫌で堪らなかった。このままじゃヤバい、とんでもなく遠くの学校に行こうと思って、家から2時間近くかかる清水市の高校に行ったんです。入学してから1年間は毎日プラモデルを作っていました。

ーそれで高校生から下宿生活になるんですね。どんな思い出がありますか?

下宿では食堂でご飯を食べるんですが、それまで愛情込めて作ってくれていた母親の料理がどれほど美味しかったのかが身に沁みてわかりました。
下宿のご飯の代わりにと親にお弁当用のお小遣いをもらっていたんですが、全部プラモデルと漫画に注ぎ込んでいました(笑)。食べるものに全く執着がなくて、毎日1リットルのコカ・コーラをひたすら飲んでいて、盲腸になって病院に行ったとき黒い液体を大量に吐いて病院の先生や看護婦さんに驚かれました。コーラですけどね。

ーヒップホップの存在を認識したのはどのようなときだったのでしょうか?

『ザ・ベストテン』『ザ・トップテン』といった番組を下宿のみんなでよく見ていて、下宿の食堂で風見慎吾の『涙のtake a chance』を踊っている先輩がいたんですね。
その人に「ブレイクダンスの有名なチームが駐車場で練習しているから行ってみようぜ」って誘われて。見に行くと、どでかいラジカセでヒップホップ流して踊っていたんです。こんな世界があるんだな~、でも踊りより、この音楽かっこいい、何だろうって思いました。

ー音楽は好きだったんですか?

中学までは松田聖子ばかり聴いてました。ある日、友人とディスコに行ったら、そこで流れるヒップホップがかっこよくて、この感じは好きだなと。ビートに合わせて何か言っているのがすごくかっこいい。言葉をのせているのが。
そんなとき、Run-D.M.C. が出てきて、「Raising Hell」を永遠に聴いていました。最初はどこで曲が切れているのかもわからない。でもずっと聴いていたら、すごく面白いぞと思うようになりました。
それにRun-D.M.C. の写真を見たら上下ジャージ。ジャージがオシャレになるということに衝撃を受けました。中学時代サッカー部だった友人からアディダスのジャージを譲ってもらって、ずーっと着ていましたね。

ーどんな高校生活でしたか?

絵の学校に行きたかったので、授業中はほぼ寝て、学校が終わったら絵の学校に行って23時くらいまで勉強する。絵が上手くなりたい。それで道が拓けていったら嬉しいなって漠然と思っていたんです。

ー浪人時代はどんな生活でしたか?

寝る時以外はずっと、デッサンや平面構成を描いていました。子どもの頃から絵が好きで描いてはいたんですが、こんな飽きないものがあるんだと改めて驚いたんですね。ますます絵を仕事にできればいいなと思いました。

ーその頃、好きだった画家は誰ですか?

わかりやすい人たちが大好きでした。ゴッホやウォーホール、キースへリング、ホックニー。予備校で芸術史の授業は今でも覚えています。絵もこれまでのものに影響を受けつつも新しいことをやっていくってこと。いきなり新しいものが生まれたワケじゃないっていう。

ー桑沢デザイン研究所に入学したのは何故だったんですか?

浪人時代、勉強は一切していなかったので学科試験で落ちるところもありました。でも僕には関係ない学校なんだと割り切っていたので、落ちても悔しいって思わなかった。入れてくれるところが僕の行くところだと思っていました。

ーBOSEさんとの出会いも桑沢だったんですよね?

文化祭で、ヒップホップをする奴らがいるらしいという噂を聞いて見に行ったんです。それがスチャダラパーだったんですけど、もう、すごくかっこよかった。それでBOSE(以下、ボーちゃん)に話しかけたら、すぐ仲良くなりました。家が近所だったこともあって、しょっちゅう遊びに行っていました。

ーヒップホップは「ULTIMATE DJ HANDBOOK」で勉強されていたんですか?

あの頃、いとうせいこうさん、高木完さん、藤原ヒロシさんがヒップホップの先駆者で、彼らが「ULTIMATE DJ HANDBOOK」という、ほんのちょっとしかいないヒップホップ好きのためのバイブル本を出していたんです。それを買って読んでいました。それで僕は音楽の方は人に任せようと思いました。みんなが大量に持っているレコードを、今から買ってもしょうがない。じゃあ僕は歌詞の方を頑張ろうかなと思っていました。本には韻を踏むのが大事って書いてあったんです。ボーちゃんはきちんと韻を踏んでいて、いとうせいこうさんの流れを汲んでやっていました。それを目の当たりにして、僕がそれをやっても敵わないと思っていました。

ー自分でやる衝動はどこから来ていたのでしょうか?

なぜかはわからないですけど……やっぱりマイクを持ってビートに合わせてステージに立っている奴になりたいと思ったんでしょうね。
だから、それまでラップの歌詞も書いたことなかったけど……ボーちゃんに出会ったとき、次はクリスマスイベントをやると聞いて、僕もそのライブに出させてくれって頼んだんですよね。今考えたら信じられないんですけど(笑)。でも気づいたら、自分から出たいって言っていたんですよね。桑沢在学中にラップは時々やっていたくらいです。スチャダラパーはガンガンやっていましたけど、僕はイベントがあったら、という程度。スチャダラパーがすごすぎて、これはもう敵わんって感じでしたね。

ー桑沢卒業後はゲーム制作会社に就職したんですよね?

ヒップホップで食っていこうなんて全く考えていませんでした。ヒップホップで食えるやつなんて誰もいない時代です。けど仕事しているふりしてラップの歌詞書いたり。土曜日は深夜にライブやって、日曜日は昼過ぎまで寝てるという生活でした。

ー就職してから身体の不調が表れたそうですね?

最初はドット絵の描き方が分からなくて、段々と通勤が辛くなった。会社に向かう電車に乗ると気持ち悪くなる。駅で休んでから、また向かうけどなかなか辿り着かない。お医者さんからは「身体の拒否反応ですね。やめた方がいいよ」って言われて。そうは言ってもずっと絵を描いていられる天国な職場だったので、何とかうまくドット絵が描けないものかと青い顔しながらやってましたね。
そんな時、ファミスタを作った天才プログラマーの岸本さんに、「ちょっと加藤(本名)、こういう絵を描ける?アメリカ向けのファミスタを出すから。アメリカはまるっこい絵じゃ駄目だから、球場もちょっとリアルっぽいのが欲しい。誰も描けなくて困ってるんだけど出来る?」って言われて。描けなかったらそのままクビだったんですけど……頼まれた絵をすっごい一生懸命描いて提出して、描いて提出して。それを繰り返していたら気に入ってもらえたんです。

ー並行して続けていたヒップホップは何というグループでやられていたんですか?

ナムコ時代は「TONEPAYS」。ECD さんが主催している CHECK YOUR MIKE CONTEST っていうのがあって、「TONEPAYS」で参加しました。「苦悩の人」ってはっぴいえんどの「風をあつめて」を使った曲を披露したんです。僕は優勝したと思ってました。1位発表のタイミングで一歩前に出たぐらい……けどもちろん優勝は全然違うグループでした(笑)。
あれ? って。審査員にさえ届かなかった。じゃあもう終わりじゃん、やめようかなって思いましたね。
それからしばらくは活動していたんですけど、他のメンバーがやめるタイミングもあって、僕もやめようと思ったんです。ゲーム作りに専念しようかと。
そこで川辺ヒロシくんに相談したら、お前はやめるな、俺がDJをやるから続けろ、って言ってくれました。それからは「かせきさいだぁ」という名前で活動を始めました。

ー「かせきさいだぁ」の由来は何だったんですか?

「かせきさいだぁ」という言葉は、「TONEPAYS」で最後に作った曲「土曜日のかせきさいだぁ 」に付けたのが最初なんです。
映画『時をかける少女』(大林宣彦監督)の、「土曜日の実験室!」っていうシーンが好きで。それとサイダーが好きなので「「土曜日のサイダー」にしよう、恐竜も好きなので「かせき」も入れたい。それで「土曜日のかせきさいだぁ」にしたんです。
気に入っていたので、自分の名前も「かせきさいだぁ」にしました。

ーナムコを退職されたのはどのようなタイミングだったのでしょうか?

「TONEPAYS」のメンバーが解散後デザインを始めたんです。彼が仕事をするうちあるレーベルの人と知り合いになって、その人からヒップホップのレーベルをやりたいんだけど面白い人いない? という話がきたそうで、僕のことを紹介してくれたんです。デモテープを聴いてもらったりライブを見に来てもらったら、一番最初に「かせきさいだぁ」のCDを出したいと言ってもらえて。
以前、レコーディングエンジニアをやってるIllicit Tsuboiくんが「TONEPAYS」のライブを見て、「めちゃくちゃかっこいい。加藤くんが CD を出す時は僕が絶対、全部音を録るので、連絡ください!」って言ってくれていたので、彼にお願いしました。10日間くらいで録音したと思います。でも CD 作って、よしこれで仕事辞められるぞ! なんてあるわけないです。インディーズでCD出しても出しただけです。それで食っていけるわけじゃない。ありがたいことにCDは1万枚売れました。当時の、メジャー行くでしょっていう数字です。なので次はメジャー盤も、みたいな話になり、少しずつ忙しくなって、ナムコも行けなくなってしまいました。
当初は岸本さんに一生ついていこうと思っていたんです。けど色々あって、このままだと迷惑をかけてしまうなって思い辞めました。
ナムコは辞めても、音楽で食べていけるとは全く思わなかったですね。何もなかった。貯金もほとんどなくて、よく毎月家賃を払えていたなという感じです。

ー音楽で食べていく決意はあったんですか?

決意はないです、ないですよ。
平日はナムコで働いて土日だけライブ。そんな生活が続けばいいなと思っていたんですけど、そんなわけないし。見切り発車的な…

ーファーストアルバムが好調、続いてセカンドアルバムが不調だったそうですね。

セカンドアルバムを作るとき、僕はシングル曲がいっぱい入ったアルバムにしたかったんです。なぜって、捨て曲は絶対入れたくなかったんです。お金ないのに3000円出して CD 買って、あの1曲だけかい! みたいな体験を何度もしていたんで。
松田聖子さんのアルバムは捨て曲がなくて感心していたんです。僕の尊敬する松本隆先生が手がけていたので、僕も同じように、いろんなミュージシャンと、本気の曲しか入っていないアルバムを作りたい。でもそれをヒップホップのアルバムでっていうとちょっと正気の沙汰じゃなかったのか、とにかく評判が悪かったんです。
ファーストアルバムの『かせきさいだぁ』ははっぴいえんどのヒップホップ版に挑戦した作品です。セカンドアルバムの『SKYNUTS』はティン・パン・アレーのヒップホップ版を作りたかった。シティポップスをヒップホップで表現できるかに挑戦しました。周りもすごい! と言ってくれて。
ところが、売れなかった。レコード会社に「かせきさいだぁはもう終わった」と言われるほど。これはちょっともう無理だなと。僕のやろうとしていることを誰もわかってくれていない。サードアルバムの話も出たんですけど、わかるわけがないだろうと。セカンドでわからなかったのにもっと進めるつもりよ? と思って。一応デモテープも作って、レーベルの人がいろんなレコード会社に持ち込んでくれたんですけど、どこにもこんなの出せない、って言われたそうです。本当に諦めましたね。

ーそこから13年間アルバムは出さずに様々な活動をされていましたね。いとうせいこうさんとのコラボはどうでしたか?

まず、いとうせいこうさんの継承者はスチャダラパーだと思っていたんです。ところが僕がデビューしたとき、いとうせいこうさんがコメントくれたんです。「やっと俺の継承者が現れた」って。僕はいとうせいこうさんの後継者はスチャダラパーでしょ、と思っていました。
でも会ってみると、「俺とお前は似てる。どんどんちょっとずつ変わってっちゃったり好きなことを始めちゃったり、でもまた戻ってきたり。なんかそういう部分で似ているんだ。」みたいなこと言ってくれて。そしたらやっぱりめっちゃすごいんですよ。めっちゃすごい、せいこうさんは。
これはもう吸収できることはなんでも吸収しようと思って。なんで俺にそんなに訊くんだって言われるほど、しょっちゅう質問していたんですよ。「せいこうさんこれって?」って。色々教えてくれました。
「かせきさいだぁのアニソング!! バケイション!」を出したときも、「やっぱりお前は、次に何でそれをやるんだという意外なところが、俺と似ている。」「かせきは完全にティン・パン・アレー系の流れを継承したボーカリストになった。」と賛辞をいただいて。いとうせいこうさんとの出会いは、本当にありがたかったです。

ーかせきさんの周りには面白い方々が集まってますね。

そうですね、磁石みたいに集まってくるんですね。ワタナベイビー、ボーちゃん。
最近は安齋肇さんとすごく仲良くさせてもらっています。ある時急に、「かせきくん一緒にやらない?」って言われたんです。理由を聞いたらサングラスをかけてるからだって(笑)。「僕はサングラスをかけている人と長く仕事が続くんだよね。タモリさん、みうらじゅん。他にサングラスかけている人いないかな~って探したらかせきさいだぁだ!と閃いて。」と。確かに長く続いてるんです、AnzaiCIDERってアートユニットを組んで活動してて、10年ぐらい。本当にありがたいです。

ー松本隆さんもそうですよね。

出会いはデビューしてすぐ、「僕のところに会いにきなさい」って言われたからです。
最初は怒られるんじゃないかと思ったんですが、呼ばれたところが高級な中華料理店だと知って、スキップしていきました。
それからはよく電話で「来なよ」って呼んでもらえて。それで弟子にさせてもらっていいですかって言ったら、「僕はずっと弟子を取らない主義で全員に断ってきたけど、君ならいいよ」って。しばらくして松本先生から「本当に弟子にならない? 仕事場へ車を運転したり、君に仕事も回すし、ウチに住み込みして」って。もちろん僕は「はい。ぜひ!」と返事しました。なんかわかんないんですけど、転がっていくしかないじゃないですか。それからは恋人よりも会っていたんです。1週間のうち4日は会ってご飯食べて。1ヶ月経った頃、「実はこの1ヶ月間、仕事を全部断らないで受けたんだ。もう作詞家って仕事が減ってるんだよ。君に回そうと思っていたけれど、全部できちゃったんだ。この先、作詞家という職業はなくなると思う。だから君は僕の弟子にならないで、自分の力で生き残って欲しい。歌詞の仕事もやった方がいいけど、それだけじゃ絶対食っていけないから色々やった方がいい」と、そんなことを2000年には仰っていて。それから会ってくれなくなったんです。ばったり会うことはあるんですけど。サバイバルして頑張っていきなさいと。未だに突き放されてます(笑)。会ったら仲良くしてくれるんですけどね。

ー会いたい人に会えていますか?

会えています。細野晴臣さん、大滝詠一さん、鈴木茂さん、南佳孝さん、ダブマスターXさん……もちろん自分からも会いに行きますよ。江口寿史先生や久住昌之さんには個展をされているタイミングで CD を渡しに行ったり。でも僕はもともと、会いたいって感じじゃなくて…だって思ってたような人じゃなかったら、アレ?ってなるでしょ。でも皆さん本当に思ってる以上に最高の方達でしたね。

ー上の世代から気に入られるコツってありますか?

実家が酒屋さんで、向かいの店でおばあちゃんが飲み屋やっていたんです。保育園から小学校まで毎日その飲み屋に遊びに行っていました。おじさんたちに可愛がってもらってたんですけど、それだけじゃ悔しくて笑わせたいんですよね。大人を笑わせるギャグとか、色々考えていました。そこで年上とうまくやっていくスキルを身につけたのかも。
でも年上の方と一緒に仕事をすることは怖いですよ。楽しうに見えるでしょうけど。いや実際楽しいんですけどね。一緒にやるとなると対等なんです。でも絶対、対等じゃない。向こうの方が絶対にすごいです。引き出しの数が圧倒的に違う。だから心の中では地獄だったりしますが、それよりも一緒に作業させてもらう間にとにかく吸収するっていう。そんな機会なかなかありませんから。

ー下の世代からの反応は届いていますか?

後輩を可愛がる……が苦手なんですよね。どう可愛がっていいかわからなくて…後輩たちに可愛がって貰えるのが一番いいんですけど。

ーシティポップって言葉にするとなんですか?

世の中で言われているのは、sophisticated されたアレンジってやつです。僕が思うのは、AOR やソウルを日本人がやりたくてやると、割ときっちりしたサウンドになって、それがなんか妙にシティ感を出しちゃうんじゃないかと。勝手なイメージですが、ブルーアイドソウルじゃなく、ブラックアイドソウル。そのブラックアイドソウルこそがシティポップスなんじゃないかと。

ー再始動のきっかけは何だったんですか?

RIP SLYMEが本当にポップなヒップホップをやっていて、僕の出る幕なし、もう引退だなと思ったんですが、ヒップホップでシティ感ができるのは俺だけじゃないかってことに気づいて。

ー楽しそうと言われることは多いですか?

結局隙間産業なんです。誰もやってないことをやればいいというか。誰もやってないことは、つまり間違ったことなんです。正しいことはもう誰かがやっているんです。だから間違ったことの中にヒントがある。
NHKの教育番組のために「ミスターアクシデント」という曲を作ったんです。その中に、「カニカマだって失敗から生まれたんだ」って歌詞があるんですが、間違うことが一番大事だと気づいたことから生まれた曲なんです。
自分の始まりもRun-D.M.C. みたいなヒップホップをやりたかったんですけど、できないからはっぴいえんどのヒップホップ版を作った。間違っているんですよ。絶対。でも、どこにもないものができたから、ゆくゆくは評価されたんだと思います。セカンドアルバムの『SKYnuts』という曲を作ったとき、最初は爆笑するほどダサかったんです。なので1時間かけて歌詞を書き直して録音したら一緒に曲を作っていたTsuboiくんが、「凄い良くなった!前のテイクと聴き比べてみよう」ってもう一度最初のを聴いてみたら、「いや、ちょっと待って!前のテイクこれ変だけど、聴いたことなくてかっこいいような気もしてきた。」って、そしたらすごくいい曲ができたんです。ボーちゃんがすぐ訊いてきたぐらいです。「あの曲ってどうやって作っているの?メロディーがあるようなラップ。なんなのあれ?」って。
誰もやってないことだったから、良かったんですよね。間違いから生まれて、間違うことがすごく大事だっていうことが毎回ポイントになってきました。

ー歌詞を書くときはそれを考えているんですか?

松本隆先生の歌詞をそのままサンプリングしたきっかけは、最初は似たようなものを書きたいと思ったけど、それも逆に失礼じゃないかと思いました。素晴らしい詞があるんだから、その素晴らしい詞をそのまま使うべきだって。松本先生も理解してくれて。それも間違ってるじゃないですか。人の歌詞をそのまま使うって。今思うとぞっとしますもん。

ー自分の CD はどういうときに聴かれたいと思いますか?

それはもう四六時中狂ったように聴いてもらえるのが一番いいです。

かせきさいだぁ
95年にインディーズ盤『かせきさいだぁ』、翌年メジャー盤『かせきさいだぁ』を発表。音楽以外でも4コマ漫画『ハグトン』を01年から描き続け、今ではハグトンを題材にしたアート活動にまで表現の場を拡げている。
ソラミミスト安齋肇 さんとのアートユニット「アンザイさいだぁ」でも活躍中。
11年、2ndアルバムリリースから13年ぶりとなる待望の3rdアルバム『SOUND BURGER PLANET』、12年9月には矢継ぎ早に4thアルバム『ミスターシティポップ』をリリース。13年8月には全曲アニソンカバーアルバム『かせきさいだぁのアニソング!! バケイション!』をリリース。
最新作は17年8月にリリースした5年振りのオリジナルアルバム「ONIGIRI UNIVERSITY」。18年10月にはEテレ「シャキーン!」のシャキーンミュージックに新曲「ミスターアクシデント」の書き下ろしと出演で話題に。
今年の夏には東京で初めての大規模な個展を予定。

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Photo:Makoto Nakamori
Text:Makiko Namie, Makoto Nakamori

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