色々な人がVOSTOKやりたいって言ってくれて、
それはありがたいし、励みになる

大城壮平 #編集者

大城さんの出身はどちらですか?

沖縄の宮古島生まれです。

宮古島では何をして遊んでいましたか?

当時はサーフィンとかマリンスポーツって観光客がやるのもので、宮古島の人はやっていないんですよ。宮古島って小さいのね。車で半日もあれば周れるくらい。歩いて5分もすれば海だから、遊ぶといえば海行くみたいな。カニとか色々捕まえて食べたり原始的な遊びをしていたかも。

宮古島の文化はどのような印象でしたか?

沖縄本島や石垣島は火山岩が起伏して島になってるけど、宮古島は石灰岩や珊瑚礁でできた島だから、山もなくて。海以外の自然は乏しい。土着の大きい生物とか、沖縄の天然記念物は宮古島にはいないんだよね。だからハブもいない。言語もちょっとだけ違ったり、カルチャーや歴史が変で。
インターネット以前の地方って大体そうだと思うんですけど、先輩とかの影響を色濃く受けるじゃないですか。宮古島はジャズが盛んだったり、‘ミヤビリー’と呼ばれるロカビリー文化があるくらい、音楽好きが多い。その影響を受けた先輩たちがいて、小学校高学年からストレイ・キャッツ聞いたり、ブライアン・セッツァーから入って、フィフティーズのロックとか、アメリカングラフィティの世界がすごく好きになった。2000年代頭なのに制服を改造してフィフティーズっぽくしたりとか(笑)。足元も、東京ならお洒落なスニーカーを履くところをサドルシューズとかジョージコックスのラバーソール履いたり。東京ならシャツのボタン開けて着るところを俺らは一番上まで閉めてループタイみたいな。ベルトもスタッズのものにしたりとか。クリームソーダ(原宿のロカビリーショップ)が好きって言う。ちょっと変な島だった。
僕らが小学校高学年くらいの時、Doragon Ashとかヒップホップが出てきて、それに魅了された世代だから、ミクスチャーの Rage Against the Machine とか Limp Bizkit とか The Offspring とかも聴くようになって。あとなぜか宮古島はMTVがどの家庭でもみられたんですよね。だから小学校でもMTVが話題の中心で、誰々のPVみた? っていうのを早い段階でやっていて、Doragon Ashの PV とか見ると、BMX やスケボー乗っているから、よし! お年玉で買おう! って感じで、ファッションやカルチャーの目覚めは狭い分、濃くて早かったかもしれない。西海岸風のカルチャーやロカビリーや色々なカルチャーが混ざった変な小中学校時代だね。
でも、結局、先輩とかから得る情報って限界があって。今はなくなっちゃったんですけど、ブックボックスっていう本屋があって、ファッション誌やカルチャー誌を扱っていて、それこそ「asayan」、「Street JACK」、「Boon」、「COOL」、「MENS NON-NO」とか7タイトルくらいしかないけど、それでも俺らからしたらすげー情報量で。今みたいにネットないから教科書というか。
本屋でも遅れて雑誌が来るから、「Boon」6月号の隣に「Street JACK」8月号が一緒に並んでるとかめちゃくちゃだったけど、友達とお金を出し合って買って、回し読みをしてました。
俺らは通販でパチモンばっかり買ってたけど、宮古島には偽物か本物か判断できる奴がいないから着てた(笑)。
映画も先輩から「さらば青春の光」は観た方がいいとか、「シド・アンド・ナンシー」は観ないとだめだとかカルチャーの基礎は教えてもらったかな。
その頃は知っている方がかっこいいとか偉いみたいな風潮だったから、周りよりもブランドが知りたいとか映画を観ておきたいとかって雰囲気だったのは良かったなって思う。でも、海にも普通に入って遊んでたよ。スケボー、BMX もやってたし。

ご家族は?

両親は宮古島出身です。
宮古島の隣に伊良部島ってところがあって、うちの親父は伊良部町の人に呼ばれて歯医者してたんだよね。そこで唯一の歯医者さん。今はでかい橋で繋がってるんだけど、元々は船でしか行けなくて。だから毎日8時くらいにフェリーで通ってた。
母親は最初、専業主婦だったけど、歯医者の手伝いを始めて。アートやカルチャーにすごい興味がある人だから沖縄の工芸品とかを集めたセレクトショップを15年くらいやってる。母親の趣味で家に「クロワッサン」、「ELLE」、「ナショナルジオグラフィック」とか「芸術新潮」とか雑誌がたくさんあったのも、今の自分を形成する一つで、良かったと思う。CDは自分で買ってたけど、本や雑誌を買うお金は比較的両親からもらえていい環境だった。今思うとありがたい。

島を出たのはいつですか?

自分の興味あるものは、全部東京から来てるじゃない? 島が嫌いだったわけじゃないけど、早く島を出たい、違う人に会ってみたい、って。宮古島には東京につながる進学校がなくて、東京に行くためにはいい高校入って、大学にも行かなきゃいけないみたいなのは中学の時に何となく思っていて。一人暮らしをしてみたい、親元を離れたい、というのがあって、那覇の高校を受験して合格。15歳の時から一人暮らしをしてたから、高校関係なく友達がうちに集まってたし、ファッションの情報交換とかもできた。当時、沖縄に WALKER っていうセレクトショップがあって、NEPENTHES系のブランドも取り扱っていて。そこの代表の名城さんは服オタクでカルチャーオタクだったから色々教わってた。

高校の間は真面目に学校へ行っていたのですか?

サッカーやりつつ友達と遊びつつ大学行きたかったから勉強もしつつ。kudosの工藤司さんは高校時代の一個上の先輩で、当時からすごいおしゃれだった。

高校の時に「HUgE」に出会ったんですか?

那覇に行くと雑誌のコーナーも大きいし、中古のレコード屋もあったし手に入れられる情報量が広がった。友達もたくさんできたし。それでメンズファッション誌のコーナーに行くと異色の雑誌が置いてあって、何だろうって「HUgE」を見たらめちゃくちゃカッコ良くて良いなと思って、こんな仕事したいなって思ったんだよね。そっから編集ってことについて調べたら、編集者って存在がいるってことに気がついた。高校の時から色々なことに興味持ってみて思ったのは、俺は写真は撮れないし、音楽もヤバい人がいる。映画も撮れない。ファッションも作れない。一個を突き詰める才能が自分にはないなって思って。みんな天才すぎる、これ越えるの無理だろって。でもそれらを編んでアウトプットする仕事なら自分にもできるって思って。アウトプットで自分が一番かっこいいと思う雑誌が「HUgE」だったから、東京行ったらこの仕事したいなって思った。それで編集長について色々調べた時に、やっぱり皆さん良い大学出てる。だから俺も良い大学に入ろうと思って、東大か早稲田か慶応を目指す。調べたら早稲田と慶応は3教科でいけるじゃんって思って、早稲田に浪人して入学。

大学生活はいかがでしたか?

不真面目。親には本当に申し訳ないけど、大学に入れてもらったのに昼は EATer でバイトして夜もバーでバイトして土日もアパレルでバイトして、全然大学行ってない。行ったとしても授業サボって、図書館で石ノ森・つげ義春・手塚とかの漫画読むか、AV資料室に行って映画見るか、酒飲むかっていう生活。一人暮らしを始めてから親は15歳なら一人の人間としての自我があるからって、俺に何も言わない。家出てから勉強しろって一度も言われたことがない。それが良かったのかもな。好きなことやったら良いんじゃないのって応援してくれた。

「HUgE」に携わる経緯を聞かせてください。

「HUgE」って講談社から刊行されてたんだけど、実際には講談社は名前だけの話で製作は全部 EATer っていう編集プロダクションが作っていて。EATer はディレクターの右近さんが頭でやってて編集者が6、7人くらいで「HUgE」を作ってた。大学1年の頃に EATer のアルバイト募集があって応募したら落とされて、すげー悔しくて。その時の倍率がすごくて4人か5人しか取らないのに4,50人とか応募が来る。EATer はファッション業界のカタログをほぼ全部やっててすごく人気があった。大学2年生の時に再度応募したら、なんとかバイトで雇ってもらった。やっとここがスタートラインだと思って。俺はカルチャーとかファッションを周りよりは知っているって思ってたんだけど……EATer は、よりによってディレクターの右近さんの席の隣がバイト席なんですよ。右近さんにブルース・ウェーバーが撮ったロベルト・ボッレの資料を集めといてって指示を出されたんだけど、その時まだブルース・ウェーバーまで行けてなかったから、テリー・リチャードソン止まりみたいな。それで何回か聞き直したらブチ切れられて(笑)。「なんでここ来てんだよ! 『HUgE』好きじゃねえのか?」って。スタッフクレジットの見方もわかんない時だったから初日に死ぬほど怒られて。井の中の蛙を実感して猛省して。先輩たちは優しくて、カルチャーを教えてくれたり現場に連れてってもらえたりした。日本トップの一流のカメラマンやスタイリストとかの現場を20代前半から見させてもらったのはありがたかったかな。

編集の仕事の初めはどんなことをしていましたか?

最初はアルバイトだったから基本的には色校正を届けたり原稿とかブツ撮りの商品をピックアップしにいったり。それによってプレスの人に顔を覚えてもらったり、クレジットの作り方やショールムームの場所を覚えたり。データの整理もやった。弁当の手配もしてた。
大学の時、バイト掛け持ちしながら無理してでもモード系を買って安いカップ麺とか啜ってたんだけど、EATer に入って良かったのは、人間外見も大事だけど中身も大事で身の丈にあった服を買って、他のカルチャーをインプットするってことも大事だって、服だけじゃないんだなって教えてもらった。それで一回、全部服を売ってその金で写真集やら雑誌を古本屋で買い漁ったり、良いレストランやバーに行ったりしていたかも。

右近さんの下で働くことになった経緯を教えてください。

EATer に入って2年くらい経った頃、「HUgE」がなくなる、どうしようみたいな感じになって。右近さんも抜けちゃうしEATer の先輩方がすご過ぎて、このままEATer にいても社員として雇ってもらえないなって思って辞めて。これからの人生どうしよう、編集者になるために東京来たしなーって思っていたら、右近さんから電話あって、「大城何してんの?一回、お茶しようよ」って。俺と一緒にやらないかって声かけてもらって。俺からしたら神みたいな存在で、業界のトップの人だし、やってることも格好良かったから二つ返事でやります! って。でも最初は「Them magazine」の存在は教えてくれなくて。「Them magazine」のことを先に言ったらコイツ絶対来るって思われてたのかも。ファッション系の仕事のじゃないよ、それでもやる? って言われて。自分の下で働いて、ついて来てくれるか? みたいなことを聞いたんだろうと思う。右近さんは恩人。あの電話がなかったら編集者は諦めてると思うし、田舎に帰ってるかもしれない(笑)。20代の前半で会社(Righters)の立ち上げとか「Them magazine」の創刊に参加できたり見せてもらったりしたから、自分が会社とか雑誌やろうってなった時も最初のアプローチの仕方がわかった。すごくありがたかった。

右近さんと2人でThem magazineを創刊していく過程はどうでしたか?

最初は細かいことが全然わかんなくて。ディレクターとアルバイトがいきなり雑誌やるみたいな感じだったから。右近さんは多くのことを求めてくるからもう毎日毎日しこたま怒られた。本当に会社に行くのがすごい嫌っていうか面白いんだけど今日も超怒られるんだろうなぁみたいな。今日は殴られるかな殴られないかな? って思うくらい、嫌だったかも(笑)。しょうがないんだけどね。すごく育ててくれた。流石に最初から2人だけでは無理で3号までは外部のエディターに手伝ってもらってたけど、5号目からはやり方もわかってきたから会社のメンバーだけで回した。

「Them magazine」のビジュアルの強さはどこから来ていたのでしょうか?

この業界は服を借りるのも名前で無条件に OK だったりするから。右近亨さんと野口強さんがやっているってことでブランドは即 OK だった。「Them magazine」の時は3号までは右近さんの言うことをとりあえずやる。わかんないから。やってくうちに自分でもこうしたい、こういう企画やりたいってのは出てきて、右近さんがすごいのは二十代後半の俺の意見を尊重してくれた。俺がこのスタッフとこういう感じでやりたいとかって言ったら、いいよみたいな。

「Them magazine」で自分の中にある転機となった企画はありますか?

自分の中で編集者としてのなんか意識が変わったのは「Them magazine」の「go south」と「The American NOVEL Chase」を担当した時で、どっちも全部一人で特集をさせてもらった号。最初の企画から全部、この人とやりたいって言うのも含めて一冊まるごとを担当させてくれた。やっぱり、この27,8歳のまだキャリアもたいしたことがない奴に。「大城、次の特集お前一冊やっても良いよ」っていう懐のでかさはすごいなと思う。やっぱ任されると勉強もするし、ちゃんと頑張ろうってなるもんね。自分が気になった TOM MAX っていう沖縄の作家がいて、どうせなら地元の人も取り上げたいなと思って。右近さんはそれを言ってもやらせてくれたし。ありがたかったしすごい。

「Them magazine」から付き合いのあるカメラマンはいますか?

最初は売り込みに来るカメラマンとかスタイリストは全部、右近さんが対応してたんだけど、途中から「大城も見ちゃえば?」って言ってくれたんで、20代後半の時からブックはなるべく見るようにしてた。その頃から付き合いあるのは濱村健誉君とか青木勇策君とかかな? 他にもいるけど。

独立に至った経緯を教えてください。

Righters に23歳から6年半近くいたのかな? 最初はもちろんめちゃくちゃ知らないことだらけで、教えてもらって色々やったりしてて。まだまだなところがたくさんあるけど、自分で特集を任せてもらったし。やっぱり雑誌が好きだし作るのも好きだから、1ページ1ページちゃんとこだわりたいし面白い企画をやりたい。雑誌を作るのに注力してるっていうか高いモチベーションでずっとやっていたんだけど。これはたくさんやる上でしょうがないんだけど、他の編集者たちはどっちかといったらそこまで雑誌が好きじゃないのかなって。熱量の差、みたいのをすごく感じて。「HUgE」のすごいところって毎回雑誌としてのクオリティがめちゃめちゃ高い。それは何でかっていうと、やっぱり雑誌って編集者の力量だと思っていて、どれだけすごいカメラマンやスタイリストを起用しても、編集者が何をお願いするか、どんなページに仕上げるか、じゃないですか。結局、雑誌は編集者のものですよね。それこそ「Esquire」のアーノルド・ギングリッチが言った「雑誌は人である」って言葉はその通りだと思ってて。編集者が縁の下の力持ちでカメラマンとかに好きなことをしてもらうのも編集者の全て力量だし、ここは引く、ここは出た方がいいとかも。「HUgE」を作ってた核の人はそれぞれめちゃくちゃ自分が強いところを持ってて、しかもフィロソフィーも持ってて。もちろん右近亨さんがディレクションする「HUgE」って枠組みだったけど、その中で俺はこれがカッコ良い、みたいなのを120%出してて。毎回、バチバチにぶつかってて。そうやって1人1人自分が格好良いと思う熱量とか意思をちゃんとページに宿してたからだと思うんだよね。「HUgE」が業界に入るきっかけだったけど、「HUgE」の亡霊を追いかけてもだめだし、打倒「HUgE」じゃないけど、そういう考えでやってたかな。あとは雑誌の環境も厳しくなってくるし、いつまで紙の雑誌ができるんだろうと思っていて。色々考えた時に30歳が節目だというか、これやってある程度、自分で稼ぎつつ新しいこといろんなことやっていこうかな、みたいな。例えば、30歳からさらに5年間「Them magazine」にいて熱量の高くない編集者たちといる自分と独立して新しいことに挑戦した自分ということを考えたら、多分、後者の方が面白い人間になってんじゃないかなと思って。30歳の時、右近さんに独立させてくださいって言ったら、二つ返事で良いよって言ってくれた。最初はいきなり雑誌を作ろうと思わなかった、というか色々お金をプールしてからと思ってたんだけど、さっき話した、いつまで紙の雑誌ができるかわかんねぇなっていうのと、この業界、ブランドとの付き合いってすごい大事で、例えば Saint Laurent や Dior は創刊から貸し出してくれてるけど、こんだけのブランドが創刊号から30そこらの編集者に全部貸してくれるってまずなくて。何でそれができたかっていうと「Them magazine」で死ぬほどそういうページを作ってきたから。あと、右近さんのお弟子さんっていう信頼関係だったり、変に言えばネームバリューみたいのがあったから。で、逆に、ここで2,3年空いちゃって、いざモード雑誌やりたいって言ったら、あの人誰ですか? って状態になる。これは早めにやんなきゃだめだと思って。自分自身も今まで、ずっと雑誌で好きなことをアウトプットし続けていたから雑誌を作りたい衝動があって、それでちょっといきなりだけど、借金してでもやろう、みたいな。それで「VOSTOK」作っちゃった。

創刊時に多くのブランドが協力してくれたのは何でだと思いますか?

創刊号はどうしても難しいって言われたブランドもあったけど、創刊からいろんなブランドが協力してくれて、営業もいないから全部自分で媒体資料作ってスーツ着て代理店に行ったり。全部のブランドを回って。ただ最初は当然、会ってくれないところもあった。知らない雑誌は無理なんで、みたいな感じで。

ブランドに創刊を説明する際の熱量はどんな感じでした?

絶対に会うことが大事だと思って時間作ってもらってたし、手土産持ってスーツ着て媒体資料持って。「Them magazine」を辞めた理由と、もっと新しい表現をしたいって説明をして。そのブランドのスタッフィングまで決めてから行ったしね。2019 SS の御社のこのブランドのこの服は、このカメラマンとこのスタイリストでやりたいってビジュアルイメージも説明して。じゃないと伝わらないっていうか、なんとなく貸してくださいって言うよりも明確に資料と想いを伝えた方が面白いページができるっていうイメージが湧きやすい。

服を借りるという条件は他の雑誌も同じなのに「VOSTOK」だけが他の雑誌にはないビジュアルを残せていると思うのですが、それはどうしてだと思いますか?

何で皆、同じビジュアルを作るんだろう、何で格好良いビジュアルを作らないんだろう。スタートライン、服は一緒なのに。挑戦しない。でも、その考えって80,90年代の雑誌黄金時代だったら普通のことなんだよね。昔も服を借りれる条件は一緒で。借りられるってことはスタートできるわけなのに、なぜか全員同じゴールを目指す。何で、つまんないことやるんだろうって、それは疑問じゃない? 編集者が色々考えなきゃいけないのに、あまりにも編集者の思考回路がストップし過ぎてて。俺らのやっていることを「熱いね」とか「変なことしてる」とか思われるけど、自分にとっては普通のことをやってるだけ。編集者の然るべき仕事をしているっていうこと。編集がブランドの服を理解しながらリスペクトがあれば、どんな表現をしても良いと思ってて、Dis したり汚く見えない限りは。例えばブランドの服が6体あったら、縦位置、カラーで全身見せて6ページ撮らないといけない、というのが決まりになってて。それしか作ってないとそういう思考回路にしかならないんだと思う。カメラマンもブランドもそれが当たり前になってて、俺が面白いと思うことをやると理解が追いつかないっていうか、わかんないものは怖いんだよね。本国に怒られるかもって思うから。でも、俺がお願いだから本国に聞いてくれって、本国に通してもらったらすごく気に入って OK もらったり広告まで出してくれるようになる。そんなのばっかり。ブランドの服はこうやった方が面白いですよっていうアイディアを出してんのに、その人たちがそもそも理解してくれなくて、そことも戦わないといけないっていうよくわかんない自体に陥っている。そもそもブランドを説得することに労力を費やさないといけない。セレクトもそうだし、っていうヤバいことになってるのは現状ですね。

思考停止してブランドと戦わない雑誌が多い中、「VOSTOK」のルールは何ですか?

それはやっぱり、そこに対するビジュアルの強度とリスペクトがあること。それがあれば変なことをやってないというか、嫌な思いをする人がいないと思う。あと、やっぱり良いビジュアルは、頭が固い素人が見ても面白いなって思うんじゃないかな。「VOSTOK」はアートもカルチャーもわからない人が見てもカッコ良いなって思わせる力があると思ってるし、そこに賭けてるっていうか。これからの時代それさえもだめかもしんないけど。でも、ありがたいことに1号目を出したらブランドやデザイナーの琴線に触れて、広告を出してもらって何とかやってる。でも、もしかしたらこの時代、なくなっちゃうのかなっていうのはある。どうなんすかね?(笑)。

コレクションには必ず行くそうですが理由を教えてください。

宮古島にいた時からパリコレは知っていて、ファションに関わっている以上は1回はパリコレに行ってみたいと思っていて。一流のメゾンとかが色々な趣向を凝らしてパリコレで発表してる。最前線を生で見られるのは貴重だし誰でも見られるわけじゃないから。今は色々な価値観があってパリコレが一番大事とかじゃないけど、スタンダードのてっぺんだと思ってるし。ずっと何十年も発表の場所であり続けてる場所を実際に生で見れるっていうのはありがたいし、いろんなことに対する判断ができる。クラシカルとかスタンダードを理解していないとアヴァンギャルドな表現ができないように、スタンダードをないがしろにするのは違うなって思ってて。編集者って本当にいろんなことを知った上で、だからこうだよねっていうことが言えないといけないと思ってるから。そういった意味でもちゃんと行かなきゃなって思ってる。それにブランドからインビテーションを頂ける以上は、年2回ちゃんと行きたいなと思ってる。俺が PR だとして出稿してるのに発表に来ないとか、なんじゃこいつって思うしね。ブランドの付き合いもあるし、信頼関係で行ってるところはもちろんある。色々な人に会えてコネクションも広がるって意味でも大事だと思うよ。Balenciagaはパリコレの時に本社に行く機会があったから、その時に「VOSTOK」を何冊か持って行ったらすごく気に入ってくれて、広告も出してくれるようになったんだよね。見てもらったらわかってくれる。すごく嬉しいよね。

「VOSTOK」の考え方を教えてください。

ワールドワイドに活躍している写真家と組んでやると、やっぱりブランドも喜ぶから、そういった人は1冊のうちに1人はお願いしてる。でも、ネーミングだけで選んでないか、本当にこのブランドはこの人に撮ってもらうのがベストなのかっていう自問自答はする。「VOSTOK」のページ作りはカメラマンとかスタイリストとかチームによって全くやり方を変えてる。この人は何も言わない方良いなとか、言わないとだめだなって思う時はガンガン言うし。他の雑誌でできない自由な表現、やりたいことを尊重させてあげたいけど、あくまで「VOSTOK」の大城っていう編集者の中での自由だから、それは守って欲しいし最終決定権は俺にある。編集者の面白さはこの服をこのスタイリストとこのカメラマンでやったら、どうなるんだろうな〜とか。全然違うタイプだけど、もしかしたらハマって面白い化学反応みたいなことを起こしたりするのは編集者のスタッフィングの妙。今はやっぱ皆、そこを面白がってないし、あまり考えてない人が多いというか。流行ってる人にとりあえずお願いすれば良いじゃんって流れが嫌いだし、編集者が考えるべきことをスタイリストに丸投げしたり。セレクトもカメラマンとスタイリストが決めちゃったり、そういうことが多くなってて編集者がいる意味がない。

ブランドからもクリエーターの指名はあると思うんですが、どうやって抗っているんですか?

ブランドからのクリエーターの指名は断っている。クリエーターを指名でやっちゃうと今までやってたことと変わらないから。そもそも「VOSTOK」をやる意味がない。なるべくブランドの意向は汲みたいけど難しい。意向は考えるけど言いなりにはならない。難しいなぁって思う。他の雑誌はなぜできないっていうより、そもそもその考えがない。別にこれでいいじゃんみたいな思考停止。結局、それってしっぺ返しというか、ここ20年ぐらいの編集者の怠慢というか。ブランドや媒体、自分自身と戦うこともせずにやってきた結果、実際に今、雑誌がブランドの言いなりになってるし、編集者もそれでいいと思ってる。その結果、面白い雑誌もないし、作ろうと思ってもできない環境になっちゃってるから、編集者の自業自得だよね。カメラマン、スタイリスト、アートディレクターが編集者を育てて、その編集者はまた次世代のデザイナーとかカメラマン、スタイリストを育てていく。業界のDNAを受け継がせていくのは大事だと思ってるんだけど、まあ、編集者はそれをやってこなかったから辛いよね。

「VOSTOK」を続けたいですか?また続ける意味とは?

「VOSTOK」は続けたいと思ってる。ファッション雑誌がなくなっちゃうからこそ、在ることの希少価値が上がるはず。続けることの大事さは実感してる。ブランドからお金をもらってやる、みたいなビジネスモデルはクラシックだから、どっかでこれを断ち切らないといけないし、紙に対する広告費も下がってるし、考えなきゃいけないと思う。

編集者と編集長の一番の違いってなんだと思いますか?

編集者と編集長のやってることの違いはないと思ってる。けど、やっぱり責任感が違うよね。結局、編集ですって言うと編集長とかディレクターが上にいるから言い訳できるんだよね。でもさ、編集長って長だから、これが大城がやりたかったことっていう100%ピュアなものが実際にプロダクトとして一生残る責任の重さ。あと、良いも悪いもダイレクトに来る。上の世代の人達がバンバン言ってくれるのね、俺に。良くも悪くも今まで以上に、これがいいっていうのもこれがだめっていうのも言ってくれるようになった。めちゃくちゃに凹みそうになるくらい。それは良かったな。自分がアップデートされる。この立場になったら全く言い訳が利かないっていうのは良かった。すげー言われるけど(笑)。

VOSTOKをamazonで売らない理由。

もちろん amazon で売っても良いんだけど。amazon でどっかにお金が落ちるよりはMagazine isn’t dead.の高山さんや flotsam books の小林さんみたいな知人のところに1円でも多くお金を落として欲しいから。業界が狭い分、なるべく近いところでお金を落としてほしい。自分が雑誌を買うときも本屋で買うようにしてる。それはたかが数百円のことだけど大事かなって思ってる。

写真集の編集をやらないのには何か理由があるのですか?

自分のルールでは写真集は不可侵。おこがましく思ってしまう。自分で写真集とかやるのは本当に写真集を専門にしてる人たちに対してDisってんのかな気持ちがあるかも。もちろんアマチュアな俺がやる面白さもあると思うんだけど、プロフェッショナルな人たちやハードコアな人たちを見ちゃってるから、ビビってるよね(笑)。そこは、やっちゃいけないことのように感じてる。絶対にやらないって訳じゃないけど、良い写真集を見てるから適当なことができないっていうのかな。

写真家にお願いするときは何を思っていますか?

雑誌で使った写真を自分の展覧会で使うように、それぐらいの視点でファッションを捉えて欲しい。ファッションだから手を抜く、カタログっぽく撮れば良いんでしょ?じゃなくてファッションに向き合って捉えた方が良くて、造形とか何かに反応してシャッター切って欲しいし、それを普段の作品と羅列したときも作品の強度がそんなに落ちてないファッションストーリーを撮って欲しい。自分の作品として残すような気持ちでやってくれると良いよね、適当じゃなくて。

未来への予感って何を思っていますか?

できたら「VOSTOK」は続けていきたい。ファッション雑誌って、いろんな人に関わってもらってもらうのが良いと思っていて、それには、やっぱりお金だったり体力だったり色々なものが必要だったりするけど、紙でのアウトプットは続けていこうと思っている。「TRANSIT」作っている加藤直徳さんが、なぜフィジカルで雑誌というものを作るかって言ったら、それは自分の魂の存在証明なんだって言ってて、俺も確かにそうだなって思った。多分、紙の雑誌をやってる人が思っているのは、多分もうこのままじゃやばいし、自分が残したいとかやりたいっていうのが強い。なんで雑誌作るの? って言われたとき、クリエーターを育てるためとか、なんとかっていうけど、結局、自分のためっていうのはすごく大きいと思う。編集者って発信するハードルも高いんだけど、その行為っていうのを定期的にやんないと結構参っちゃう。これまでは自分のキャパが狭すぎたから、今後は自由に柔軟にやっていこうかなとは思ってる。チャラくなるとかじゃないけど。ありがたいことに色々な人が「VOSTOK」をやりたいって言ってくれて、それはありがたいし励みになる。

大城 壮平 Sohei Oshiro
1988年、沖縄県宮古島生まれ。 早稲田大学商学部中退。学生時代から「HUgE」(講談社)にてアルバイトを始め、「Them magazine」(Righters)のエディターを経て、2018年に独立。2019年3月に「VOSTOK」を創刊する。株式会社CHIASMA代表。2020年10月に「VOSTOK」Vol.004を発刊予定。

Photo:Makoto Nakamori
Video:Ryo Kamijo
Text:Makiko Namie, Makoto Nakamori

色々な人がVOSTOKやりたいって言ってくれて、
それはありがたいし、励みになる

大城壮平 #編集者

大城さんの出身はどちらですか?

沖縄の宮古島生まれです。

宮古島では何をして遊んでいましたか?

当時はサーフィンとかマリンスポーツって観光客がやるのもので、宮古島の人はやっていないんですよ。宮古島って小さいのね。車で半日もあれば周れるくらい。歩いて5分もすれば海だから、遊ぶといえば海行くみたいな。カニとか色々捕まえて食べたり原始的な遊びをしていたかも。

宮古島の文化はどのような印象でしたか?

沖縄本島や石垣島は火山岩が起伏して島になってるけど、宮古島は石灰岩や珊瑚礁でできた島だから、山もなくて。海以外の自然は乏しい。土着の大きい生物とか、沖縄の天然記念物は宮古島にはいないんだよね。だからハブもいない。言語もちょっとだけ違ったり、カルチャーや歴史が変で。
インターネット以前の地方って大体そうだと思うんですけど、先輩とかの影響を色濃く受けるじゃないですか。宮古島はジャズが盛んだったり、‘ミヤビリー’と呼ばれるロカビリー文化があるくらい、音楽好きが多い。その影響を受けた先輩たちがいて、小学校高学年からストレイ・キャッツ聞いたり、ブライアン・セッツァーから入って、フィフティーズのロックとか、アメリカングラフィティの世界がすごく好きになった。2000年代頭なのに制服を改造してフィフティーズっぽくしたりとか(笑)。足元も、東京ならお洒落なスニーカーを履くところをサドルシューズとかジョージコックスのラバーソール履いたり。東京ならシャツのボタン開けて着るところを俺らは一番上まで閉めてループタイみたいな。ベルトもスタッズのものにしたりとか。クリームソーダ(原宿のロカビリーショップ)が好きって言う。ちょっと変な島だった。
僕らが小学校高学年くらいの時、Doragon Ashとかヒップホップが出てきて、それに魅了された世代だから、ミクスチャーの Rage Against the Machine とか Limp Bizkit とか The Offspring とかも聴くようになって。あとなぜか宮古島はMTVがどの家庭でもみられたんですよね。だから小学校でもMTVが話題の中心で、誰々のPVみた? っていうのを早い段階でやっていて、Doragon Ashの PV とか見ると、BMX やスケボー乗っているから、よし! お年玉で買おう! って感じで、ファッションやカルチャーの目覚めは狭い分、濃くて早かったかもしれない。西海岸風のカルチャーやロカビリーや色々なカルチャーが混ざった変な小中学校時代だね。
でも、結局、先輩とかから得る情報って限界があって。今はなくなっちゃったんですけど、ブックボックスっていう本屋があって、ファッション誌やカルチャー誌を扱っていて、それこそ「asayan」、「Street JACK」、「Boon」、「COOL」、「MENS NON-NO」とか7タイトルくらいしかないけど、それでも俺らからしたらすげー情報量で。今みたいにネットないから教科書というか。
本屋でも遅れて雑誌が来るから、「Boon」6月号の隣に「Street JACK」8月号が一緒に並んでるとかめちゃくちゃだったけど、友達とお金を出し合って買って、回し読みをしてました。
俺らは通販でパチモンばっかり買ってたけど、宮古島には偽物か本物か判断できる奴がいないから着てた(笑)。
映画も先輩から「さらば青春の光」は観た方がいいとか、「シド・アンド・ナンシー」は観ないとだめだとかカルチャーの基礎は教えてもらったかな。
その頃は知っている方がかっこいいとか偉いみたいな風潮だったから、周りよりもブランドが知りたいとか映画を観ておきたいとかって雰囲気だったのは良かったなって思う。でも、海にも普通に入って遊んでたよ。スケボー、BMX もやってたし。

ご家族は?

両親は宮古島出身です。
宮古島の隣に伊良部島ってところがあって、うちの親父は伊良部町の人に呼ばれて歯医者してたんだよね。そこで唯一の歯医者さん。今はでかい橋で繋がってるんだけど、元々は船でしか行けなくて。だから毎日8時くらいにフェリーで通ってた。
母親は最初、専業主婦だったけど、歯医者の手伝いを始めて。アートやカルチャーにすごい興味がある人だから沖縄の工芸品とかを集めたセレクトショップを15年くらいやってる。母親の趣味で家に「クロワッサン」、「ELLE」、「ナショナルジオグラフィック」とか「芸術新潮」とか雑誌がたくさんあったのも、今の自分を形成する一つで、良かったと思う。CDは自分で買ってたけど、本や雑誌を買うお金は比較的両親からもらえていい環境だった。今思うとありがたい。

島を出たのはいつですか?

自分の興味あるものは、全部東京から来てるじゃない? 島が嫌いだったわけじゃないけど、早く島を出たい、違う人に会ってみたい、って。宮古島には東京につながる進学校がなくて、東京に行くためにはいい高校入って、大学にも行かなきゃいけないみたいなのは中学の時に何となく思っていて。一人暮らしをしてみたい、親元を離れたい、というのがあって、那覇の高校を受験して合格。15歳の時から一人暮らしをしてたから、高校関係なく友達がうちに集まってたし、ファッションの情報交換とかもできた。当時、沖縄に WALKER っていうセレクトショップがあって、NEPENTHES系のブランドも取り扱っていて。そこの代表の名城さんは服オタクでカルチャーオタクだったから色々教わってた。

高校の間は真面目に学校へ行っていたのですか?

サッカーやりつつ友達と遊びつつ大学行きたかったから勉強もしつつ。kudosの工藤司さんは高校時代の一個上の先輩で、当時からすごいおしゃれだった。

高校の時に「HUgE」に出会ったんですか?

那覇に行くと雑誌のコーナーも大きいし、中古のレコード屋もあったし手に入れられる情報量が広がった。友達もたくさんできたし。それでメンズファッション誌のコーナーに行くと異色の雑誌が置いてあって、何だろうって「HUgE」を見たらめちゃくちゃカッコ良くて良いなと思って、こんな仕事したいなって思ったんだよね。そっから編集ってことについて調べたら、編集者って存在がいるってことに気がついた。高校の時から色々なことに興味持ってみて思ったのは、俺は写真は撮れないし、音楽もヤバい人がいる。映画も撮れない。ファッションも作れない。一個を突き詰める才能が自分にはないなって思って。みんな天才すぎる、これ越えるの無理だろって。でもそれらを編んでアウトプットする仕事なら自分にもできるって思って。アウトプットで自分が一番かっこいいと思う雑誌が「HUgE」だったから、東京行ったらこの仕事したいなって思った。それで編集長について色々調べた時に、やっぱり皆さん良い大学出てる。だから俺も良い大学に入ろうと思って、東大か早稲田か慶応を目指す。調べたら早稲田と慶応は3教科でいけるじゃんって思って、早稲田に浪人して入学。

大学生活はいかがでしたか?

不真面目。親には本当に申し訳ないけど、大学に入れてもらったのに昼は EATer でバイトして夜もバーでバイトして土日もアパレルでバイトして、全然大学行ってない。行ったとしても授業サボって、図書館で石ノ森・つげ義春・手塚とかの漫画読むか、AV資料室に行って映画見るか、酒飲むかっていう生活。一人暮らしを始めてから親は15歳なら一人の人間としての自我があるからって、俺に何も言わない。家出てから勉強しろって一度も言われたことがない。それが良かったのかもな。好きなことやったら良いんじゃないのって応援してくれた。

「HUgE」に携わる経緯を聞かせてください。

「HUgE」って講談社から刊行されてたんだけど、実際には講談社は名前だけの話で製作は全部 EATer っていう編集プロダクションが作っていて。EATer はディレクターの右近さんが頭でやってて編集者が6、7人くらいで「HUgE」を作ってた。大学1年の頃に EATer のアルバイト募集があって応募したら落とされて、すげー悔しくて。その時の倍率がすごくて4人か5人しか取らないのに4,50人とか応募が来る。EATer はファッション業界のカタログをほぼ全部やっててすごく人気があった。大学2年生の時に再度応募したら、なんとかバイトで雇ってもらった。やっとここがスタートラインだと思って。俺はカルチャーとかファッションを周りよりは知っているって思ってたんだけど……EATer は、よりによってディレクターの右近さんの席の隣がバイト席なんですよ。右近さんにブルース・ウェーバーが撮ったロベルト・ボッレの資料を集めといてって指示を出されたんだけど、その時まだブルース・ウェーバーまで行けてなかったから、テリー・リチャードソン止まりみたいな。それで何回か聞き直したらブチ切れられて(笑)。「なんでここ来てんだよ! 『HUgE』好きじゃねえのか?」って。スタッフクレジットの見方もわかんない時だったから初日に死ぬほど怒られて。井の中の蛙を実感して猛省して。先輩たちは優しくて、カルチャーを教えてくれたり現場に連れてってもらえたりした。日本トップの一流のカメラマンやスタイリストとかの現場を20代前半から見させてもらったのはありがたかったかな。

編集の仕事の初めはどんなことをしていましたか?

最初はアルバイトだったから基本的には色校正を届けたり原稿とかブツ撮りの商品をピックアップしにいったり。それによってプレスの人に顔を覚えてもらったり、クレジットの作り方やショールムームの場所を覚えたり。データの整理もやった。弁当の手配もしてた。
大学の時、バイト掛け持ちしながら無理してでもモード系を買って安いカップ麺とか啜ってたんだけど、EATer に入って良かったのは、人間外見も大事だけど中身も大事で身の丈にあった服を買って、他のカルチャーをインプットするってことも大事だって、服だけじゃないんだなって教えてもらった。それで一回、全部服を売ってその金で写真集やら雑誌を古本屋で買い漁ったり、良いレストランやバーに行ったりしていたかも。

右近さんの下で働くことになった経緯を教えてください。

EATer に入って2年くらい経った頃、「HUgE」がなくなる、どうしようみたいな感じになって。右近さんも抜けちゃうしEATer の先輩方がすご過ぎて、このままEATer にいても社員として雇ってもらえないなって思って辞めて。これからの人生どうしよう、編集者になるために東京来たしなーって思っていたら、右近さんから電話あって、「大城何してんの?一回、お茶しようよ」って。俺と一緒にやらないかって声かけてもらって。俺からしたら神みたいな存在で、業界のトップの人だし、やってることも格好良かったから二つ返事でやります! って。でも最初は「Them magazine」の存在は教えてくれなくて。「Them magazine」のことを先に言ったらコイツ絶対来るって思われてたのかも。ファッション系の仕事のじゃないよ、それでもやる? って言われて。自分の下で働いて、ついて来てくれるか? みたいなことを聞いたんだろうと思う。右近さんは恩人。あの電話がなかったら編集者は諦めてると思うし、田舎に帰ってるかもしれない(笑)。20代の前半で会社(Righters)の立ち上げとか「Them magazine」の創刊に参加できたり見せてもらったりしたから、自分が会社とか雑誌やろうってなった時も最初のアプローチの仕方がわかった。すごくありがたかった。

右近さんと2人でThem magazineを創刊していく過程はどうでしたか?

最初は細かいことが全然わかんなくて。ディレクターとアルバイトがいきなり雑誌やるみたいな感じだったから。右近さんは多くのことを求めてくるからもう毎日毎日しこたま怒られた。本当に会社に行くのがすごい嫌っていうか面白いんだけど今日も超怒られるんだろうなぁみたいな。今日は殴られるかな殴られないかな? って思うくらい、嫌だったかも(笑)。しょうがないんだけどね。すごく育ててくれた。流石に最初から2人だけでは無理で3号までは外部のエディターに手伝ってもらってたけど、5号目からはやり方もわかってきたから会社のメンバーだけで回した。

「Them magazine」のビジュアルの強さはどこから来ていたのでしょうか?

この業界は服を借りるのも名前で無条件に OK だったりするから。右近亨さんと野口強さんがやっているってことでブランドは即 OK だった。「Them magazine」の時は3号までは右近さんの言うことをとりあえずやる。わかんないから。やってくうちに自分でもこうしたい、こういう企画やりたいってのは出てきて、右近さんがすごいのは二十代後半の俺の意見を尊重してくれた。俺がこのスタッフとこういう感じでやりたいとかって言ったら、いいよみたいな。

「Them magazine」で自分の中にある転機となった企画はありますか?

自分の中で編集者としてのなんか意識が変わったのは「Them magazine」の「go south」と「The American NOVEL Chase」を担当した時で、どっちも全部一人で特集をさせてもらった号。最初の企画から全部、この人とやりたいって言うのも含めて一冊まるごとを担当させてくれた。やっぱり、この27,8歳のまだキャリアもたいしたことがない奴に。「大城、次の特集お前一冊やっても良いよ」っていう懐のでかさはすごいなと思う。やっぱ任されると勉強もするし、ちゃんと頑張ろうってなるもんね。自分が気になった TOM MAX っていう沖縄の作家がいて、どうせなら地元の人も取り上げたいなと思って。右近さんはそれを言ってもやらせてくれたし。ありがたかったしすごい。

「Them magazine」から付き合いのあるカメラマンはいますか?

最初は売り込みに来るカメラマンとかスタイリストは全部、右近さんが対応してたんだけど、途中から「大城も見ちゃえば?」って言ってくれたんで、20代後半の時からブックはなるべく見るようにしてた。その頃から付き合いあるのは濱村健誉君とか青木勇策君とかかな? 他にもいるけど。

独立に至った経緯を教えてください。

Righters に23歳から6年半近くいたのかな? 最初はもちろんめちゃくちゃ知らないことだらけで、教えてもらって色々やったりしてて。まだまだなところがたくさんあるけど、自分で特集を任せてもらったし。やっぱり雑誌が好きだし作るのも好きだから、1ページ1ページちゃんとこだわりたいし面白い企画をやりたい。雑誌を作るのに注力してるっていうか高いモチベーションでずっとやっていたんだけど。これはたくさんやる上でしょうがないんだけど、他の編集者たちはどっちかといったらそこまで雑誌が好きじゃないのかなって。熱量の差、みたいのをすごく感じて。「HUgE」のすごいところって毎回雑誌としてのクオリティがめちゃめちゃ高い。それは何でかっていうと、やっぱり雑誌って編集者の力量だと思っていて、どれだけすごいカメラマンやスタイリストを起用しても、編集者が何をお願いするか、どんなページに仕上げるか、じゃないですか。結局、雑誌は編集者のものですよね。それこそ「Esquire」のアーノルド・ギングリッチが言った「雑誌は人である」って言葉はその通りだと思ってて。編集者が縁の下の力持ちでカメラマンとかに好きなことをしてもらうのも編集者の全て力量だし、ここは引く、ここは出た方がいいとかも。「HUgE」を作ってた核の人はそれぞれめちゃくちゃ自分が強いところを持ってて、しかもフィロソフィーも持ってて。もちろん右近亨さんがディレクションする「HUgE」って枠組みだったけど、その中で俺はこれがカッコ良い、みたいなのを120%出してて。毎回、バチバチにぶつかってて。そうやって1人1人自分が格好良いと思う熱量とか意思をちゃんとページに宿してたからだと思うんだよね。「HUgE」が業界に入るきっかけだったけど、「HUgE」の亡霊を追いかけてもだめだし、打倒「HUgE」じゃないけど、そういう考えでやってたかな。あとは雑誌の環境も厳しくなってくるし、いつまで紙の雑誌ができるんだろうと思っていて。色々考えた時に30歳が節目だというか、これやってある程度、自分で稼ぎつつ新しいこといろんなことやっていこうかな、みたいな。例えば、30歳からさらに5年間「Them magazine」にいて熱量の高くない編集者たちといる自分と独立して新しいことに挑戦した自分ということを考えたら、多分、後者の方が面白い人間になってんじゃないかなと思って。30歳の時、右近さんに独立させてくださいって言ったら、二つ返事で良いよって言ってくれた。最初はいきなり雑誌を作ろうと思わなかった、というか色々お金をプールしてからと思ってたんだけど、さっき話した、いつまで紙の雑誌ができるかわかんねぇなっていうのと、この業界、ブランドとの付き合いってすごい大事で、例えば Saint Laurent や Dior は創刊から貸し出してくれてるけど、こんだけのブランドが創刊号から30そこらの編集者に全部貸してくれるってまずなくて。何でそれができたかっていうと「Them magazine」で死ぬほどそういうページを作ってきたから。あと、右近さんのお弟子さんっていう信頼関係だったり、変に言えばネームバリューみたいのがあったから。で、逆に、ここで2,3年空いちゃって、いざモード雑誌やりたいって言ったら、あの人誰ですか? って状態になる。これは早めにやんなきゃだめだと思って。自分自身も今まで、ずっと雑誌で好きなことをアウトプットし続けていたから雑誌を作りたい衝動があって、それでちょっといきなりだけど、借金してでもやろう、みたいな。それで「VOSTOK」作っちゃった。

創刊時に多くのブランドが協力してくれたのは何でだと思いますか?

創刊号はどうしても難しいって言われたブランドもあったけど、創刊からいろんなブランドが協力してくれて、営業もいないから全部自分で媒体資料作ってスーツ着て代理店に行ったり。全部のブランドを回って。ただ最初は当然、会ってくれないところもあった。知らない雑誌は無理なんで、みたいな感じで。

ブランドに創刊を説明する際の熱量はどんな感じでした?

絶対に会うことが大事だと思って時間作ってもらってたし、手土産持ってスーツ着て媒体資料持って。「Them magazine」を辞めた理由と、もっと新しい表現をしたいって説明をして。そのブランドのスタッフィングまで決めてから行ったしね。2019 SS の御社のこのブランドのこの服は、このカメラマンとこのスタイリストでやりたいってビジュアルイメージも説明して。じゃないと伝わらないっていうか、なんとなく貸してくださいって言うよりも明確に資料と想いを伝えた方が面白いページができるっていうイメージが湧きやすい。

服を借りるという条件は他の雑誌も同じなのに「VOSTOK」だけが他の雑誌にはないビジュアルを残せていると思うのですが、それはどうしてだと思いますか?

何で皆、同じビジュアルを作るんだろう、何で格好良いビジュアルを作らないんだろう。スタートライン、服は一緒なのに。挑戦しない。でも、その考えって80,90年代の雑誌黄金時代だったら普通のことなんだよね。昔も服を借りれる条件は一緒で。借りられるってことはスタートできるわけなのに、なぜか全員同じゴールを目指す。何で、つまんないことやるんだろうって、それは疑問じゃない? 編集者が色々考えなきゃいけないのに、あまりにも編集者の思考回路がストップし過ぎてて。俺らのやっていることを「熱いね」とか「変なことしてる」とか思われるけど、自分にとっては普通のことをやってるだけ。編集者の然るべき仕事をしているっていうこと。編集がブランドの服を理解しながらリスペクトがあれば、どんな表現をしても良いと思ってて、Dis したり汚く見えない限りは。例えばブランドの服が6体あったら、縦位置、カラーで全身見せて6ページ撮らないといけない、というのが決まりになってて。それしか作ってないとそういう思考回路にしかならないんだと思う。カメラマンもブランドもそれが当たり前になってて、俺が面白いと思うことをやると理解が追いつかないっていうか、わかんないものは怖いんだよね。本国に怒られるかもって思うから。でも、俺がお願いだから本国に聞いてくれって、本国に通してもらったらすごく気に入って OK もらったり広告まで出してくれるようになる。そんなのばっかり。ブランドの服はこうやった方が面白いですよっていうアイディアを出してんのに、その人たちがそもそも理解してくれなくて、そことも戦わないといけないっていうよくわかんない自体に陥っている。そもそもブランドを説得することに労力を費やさないといけない。セレクトもそうだし、っていうヤバいことになってるのは現状ですね。

思考停止してブランドと戦わない雑誌が多い中、「VOSTOK」のルールは何ですか?

それはやっぱり、そこに対するビジュアルの強度とリスペクトがあること。それがあれば変なことをやってないというか、嫌な思いをする人がいないと思う。あと、やっぱり良いビジュアルは、頭が固い素人が見ても面白いなって思うんじゃないかな。「VOSTOK」はアートもカルチャーもわからない人が見てもカッコ良いなって思わせる力があると思ってるし、そこに賭けてるっていうか。これからの時代それさえもだめかもしんないけど。でも、ありがたいことに1号目を出したらブランドやデザイナーの琴線に触れて、広告を出してもらって何とかやってる。でも、もしかしたらこの時代、なくなっちゃうのかなっていうのはある。どうなんすかね?(笑)。

コレクションには必ず行くそうですが理由を教えてください。

宮古島にいた時からパリコレは知っていて、ファションに関わっている以上は1回はパリコレに行ってみたいと思っていて。一流のメゾンとかが色々な趣向を凝らしてパリコレで発表してる。最前線を生で見られるのは貴重だし誰でも見られるわけじゃないから。今は色々な価値観があってパリコレが一番大事とかじゃないけど、スタンダードのてっぺんだと思ってるし。ずっと何十年も発表の場所であり続けてる場所を実際に生で見れるっていうのはありがたいし、いろんなことに対する判断ができる。クラシカルとかスタンダードを理解していないとアヴァンギャルドな表現ができないように、スタンダードをないがしろにするのは違うなって思ってて。編集者って本当にいろんなことを知った上で、だからこうだよねっていうことが言えないといけないと思ってるから。そういった意味でもちゃんと行かなきゃなって思ってる。それにブランドからインビテーションを頂ける以上は、年2回ちゃんと行きたいなと思ってる。俺が PR だとして出稿してるのに発表に来ないとか、なんじゃこいつって思うしね。ブランドの付き合いもあるし、信頼関係で行ってるところはもちろんある。色々な人に会えてコネクションも広がるって意味でも大事だと思うよ。Balenciagaはパリコレの時に本社に行く機会があったから、その時に「VOSTOK」を何冊か持って行ったらすごく気に入ってくれて、広告も出してくれるようになったんだよね。見てもらったらわかってくれる。すごく嬉しいよね。

「VOSTOK」の考え方を教えてください。

ワールドワイドに活躍している写真家と組んでやると、やっぱりブランドも喜ぶから、そういった人は1冊のうちに1人はお願いしてる。でも、ネーミングだけで選んでないか、本当にこのブランドはこの人に撮ってもらうのがベストなのかっていう自問自答はする。「VOSTOK」のページ作りはカメラマンとかスタイリストとかチームによって全くやり方を変えてる。この人は何も言わない方良いなとか、言わないとだめだなって思う時はガンガン言うし。他の雑誌でできない自由な表現、やりたいことを尊重させてあげたいけど、あくまで「VOSTOK」の大城っていう編集者の中での自由だから、それは守って欲しいし最終決定権は俺にある。編集者の面白さはこの服をこのスタイリストとこのカメラマンでやったら、どうなるんだろうな〜とか。全然違うタイプだけど、もしかしたらハマって面白い化学反応みたいなことを起こしたりするのは編集者のスタッフィングの妙。今はやっぱ皆、そこを面白がってないし、あまり考えてない人が多いというか。流行ってる人にとりあえずお願いすれば良いじゃんって流れが嫌いだし、編集者が考えるべきことをスタイリストに丸投げしたり。セレクトもカメラマンとスタイリストが決めちゃったり、そういうことが多くなってて編集者がいる意味がない。

ブランドからもクリエーターの指名はあると思うんですが、どうやって抗っているんですか?

ブランドからのクリエーターの指名は断っている。クリエーターを指名でやっちゃうと今までやってたことと変わらないから。そもそも「VOSTOK」をやる意味がない。なるべくブランドの意向は汲みたいけど難しい。意向は考えるけど言いなりにはならない。難しいなぁって思う。他の雑誌はなぜできないっていうより、そもそもその考えがない。別にこれでいいじゃんみたいな思考停止。結局、それってしっぺ返しというか、ここ20年ぐらいの編集者の怠慢というか。ブランドや媒体、自分自身と戦うこともせずにやってきた結果、実際に今、雑誌がブランドの言いなりになってるし、編集者もそれでいいと思ってる。その結果、面白い雑誌もないし、作ろうと思ってもできない環境になっちゃってるから、編集者の自業自得だよね。カメラマン、スタイリスト、アートディレクターが編集者を育てて、その編集者はまた次世代のデザイナーとかカメラマン、スタイリストを育てていく。業界のDNAを受け継がせていくのは大事だと思ってるんだけど、まあ、編集者はそれをやってこなかったから辛いよね。

「VOSTOK」を続けたいですか?また続ける意味とは?

「VOSTOK」は続けたいと思ってる。ファッション雑誌がなくなっちゃうからこそ、在ることの希少価値が上がるはず。続けることの大事さは実感してる。ブランドからお金をもらってやる、みたいなビジネスモデルはクラシックだから、どっかでこれを断ち切らないといけないし、紙に対する広告費も下がってるし、考えなきゃいけないと思う。

編集者と編集長の一番の違いってなんだと思いますか?

編集者と編集長のやってることの違いはないと思ってる。けど、やっぱり責任感が違うよね。結局、編集ですって言うと編集長とかディレクターが上にいるから言い訳できるんだよね。でもさ、編集長って長だから、これが大城がやりたかったことっていう100%ピュアなものが実際にプロダクトとして一生残る責任の重さ。あと、良いも悪いもダイレクトに来る。上の世代の人達がバンバン言ってくれるのね、俺に。良くも悪くも今まで以上に、これがいいっていうのもこれがだめっていうのも言ってくれるようになった。めちゃくちゃに凹みそうになるくらい。それは良かったな。自分がアップデートされる。この立場になったら全く言い訳が利かないっていうのは良かった。すげー言われるけど(笑)。

VOSTOKをamazonで売らない理由。

もちろん amazon で売っても良いんだけど。amazon でどっかにお金が落ちるよりはMagazine isn’t dead.の高山さんや flotsam books の小林さんみたいな知人のところに1円でも多くお金を落として欲しいから。業界が狭い分、なるべく近いところでお金を落としてほしい。自分が雑誌を買うときも本屋で買うようにしてる。それはたかが数百円のことだけど大事かなって思ってる。

写真集の編集をやらないのには何か理由があるのですか?

自分のルールでは写真集は不可侵。おこがましく思ってしまう。自分で写真集とかやるのは本当に写真集を専門にしてる人たちに対してDisってんのかな気持ちがあるかも。もちろんアマチュアな俺がやる面白さもあると思うんだけど、プロフェッショナルな人たちやハードコアな人たちを見ちゃってるから、ビビってるよね(笑)。そこは、やっちゃいけないことのように感じてる。絶対にやらないって訳じゃないけど、良い写真集を見てるから適当なことができないっていうのかな。

写真家にお願いするときは何を思っていますか?

雑誌で使った写真を自分の展覧会で使うように、それぐらいの視点でファッションを捉えて欲しい。ファッションだから手を抜く、カタログっぽく撮れば良いんでしょ?じゃなくてファッションに向き合って捉えた方が良くて、造形とか何かに反応してシャッター切って欲しいし、それを普段の作品と羅列したときも作品の強度がそんなに落ちてないファッションストーリーを撮って欲しい。自分の作品として残すような気持ちでやってくれると良いよね、適当じゃなくて。

未来への予感って何を思っていますか?

できたら「VOSTOK」は続けていきたい。ファッション雑誌って、いろんな人に関わってもらってもらうのが良いと思っていて、それには、やっぱりお金だったり体力だったり色々なものが必要だったりするけど、紙でのアウトプットは続けていこうと思っている。「TRANSIT」作っている加藤直徳さんが、なぜフィジカルで雑誌というものを作るかって言ったら、それは自分の魂の存在証明なんだって言ってて、俺も確かにそうだなって思った。多分、紙の雑誌をやってる人が思っているのは、多分もうこのままじゃやばいし、自分が残したいとかやりたいっていうのが強い。なんで雑誌作るの? って言われたとき、クリエーターを育てるためとか、なんとかっていうけど、結局、自分のためっていうのはすごく大きいと思う。編集者って発信するハードルも高いんだけど、その行為っていうのを定期的にやんないと結構参っちゃう。これまでは自分のキャパが狭すぎたから、今後は自由に柔軟にやっていこうかなとは思ってる。チャラくなるとかじゃないけど。ありがたいことに色々な人が「VOSTOK」をやりたいって言ってくれて、それはありがたいし励みになる。

大城 壮平 Sohei Oshiro
1988年、沖縄県宮古島生まれ。 早稲田大学商学部中退。学生時代から「HUgE」(講談社)にてアルバイトを始め、「Them magazine」(Righters)のエディターを経て、2018年に独立。2019年3月に「VOSTOK」を創刊する。株式会社CHIASMA代表。2020年10月に「VOSTOK」Vol.004を発刊予定。

Photo:Makoto Nakamori
Video:Ryo Kamijo
Text:Makiko Namie, Makoto Nakamori