お湯を怒らせない

原 延幸 #湯屋

子どもの頃、何を考えていたか。今思えば何も考えていなかった。
自慢できるような趣味もなければ勉強もできたわけじゃない。
ただ当たり前が終わると気がついたのは父親が死んでからだ。
それも時間がたてば日常になってくる。
原さんは言う「思い出を作れる場所」。
普通を保ってくれる人がいるから僕らは生きていける。
その場所の思い出は自分を形成する一部になる。

ー殿上湯の歴史を教えてください。

曽祖父が阿佐ヶ谷、動坂、巣鴨で3軒ぐらいやっていたんですが空襲で焼けてしまった。その銭湯を復活させるために必死になって動き回った。なんとか戦後、その3軒復活させたんですが色々あって全てをたたんでしまった。それで今の殿上湯が売りに出ていたので買って、駒込に引っ越してきたんですよね。
当時は何軒かお風呂屋さんが売りに出てたらしいんですよ。ここを選んだ理由は関東大震災の時、東京中が焼け野原ですごい火事だった。暗い方暗い方って逃げてったら、ここにたどり着いたらしいです。ここら辺は家も崩れてないし地盤が固いっていうことが記憶に残っていたそうです。
空襲のときも、ここは高台なので下が空襲で焼けても火が上がって来ない。それも考慮したらしいです。あと水が良いんです。井戸水が出るんですよ。戦時中は井戸を使っていた家は、軍隊の飲み水として押さえられたみたいです。そのぐらい水が良かったのも決めてだったみたいです。

ー原さんの子どもの時の思い出は何ですか?

気が付いたらもうお風呂屋の子どもだったので知らず知らずに受け入れてました。受け入れてたというか大きいお風呂に入るのが当たり前だった。小学生ぐらいになると、まだ近所の家族とか友達もお風呂に入りに来る人たちが多かったのでお風呂場で遊んでるっていう感じでしたね。仲良い友達と湯船入りながら話したり遊んだり。結構長い時間お風呂で遊んでても誰も心配しない。小学生にとっての親公認の夜遊びの場所だったのかなって思います。

ー銭湯のお手伝いはいつからしていたんですか?

中学生からです。一番下の妹が俺が中学二年生の時に生まれたんで夏休みには手伝いをしていました。仕込み、番台、閉める作業も覚えた。高校に入った時には自然と全部できるようになってましたね。

ーその頃は銭湯を継ぐ意識でやっていたんですか?

継ぐなんてことは考えてなかったですね。でも何だろう、手伝うからには、こうしたほうがいい、ああしたほうがいいっていうのはあったんですけど。別に将来的にお風呂屋さんをこうしたいっていうビジョンは全然なかったですね。

ー高校卒業後はカメラマンのアシスタントをしたそうですが?

おじさんの知り合いのカメラマンがアシスタントを探していると言われて入りました。高校卒業後の進路を決めていなかったので。写真やカメラには興味がなかったんですが、全然知らない世界に飛び込んでみるのもありかなと思いました。

ーアシスタントの経験はいかがでしたか?

そのカメラマンは車のカタログ写真を撮っていて。朝スタジオに入って終わったころには真っ暗。なんかモグラみたいな生活だなと思いましたね(笑)。
ライティングもカメラマンの仕事じゃないから、ひたすら後ろで待ってるだけ。カメラマンはシャッター切るだけ。もう何にもやることないんですよ。あれ? アシスタントで仕事あるようなこと聞いてたけど、何もねえぞと思って。なんか悶々としてましたよね。

ーアシスタントは続けられたんですか?

すぐに辞めました(笑)。高校生の頃、雑誌にスノーボードの写真が載っているのを見て、やってみたいって思ったんです。それでスノーボードのビデオ『ROADKILL』を買ってきて見たらもう完全にやられて。スノーボードがしたくて卒業旅行で友達と行ったら完全にハマった。卒業して、アシスタントになったけど、ただジーッとしている生活に悶々として、冬に近づくほど、「やっべ……やりたい」と思うようになってきて夏過ぎたぐらいに、「すいません、辞めます」って(笑)。

ー自分のやりたいことに進んだんですね。

仕事辞めた時、岩手の知り合いから「ペンション住み込みで紹介してあげるから、来れば」って言われて。もう本当、板とウェアだけ持って行きました。何かやる時って友達と行くより一人で行って、そこで友達作っちゃった方が世界が広がるなと思ったので周りの意見は気にせず行きました。

ーどうでしたか? スノーボード中心の生活は。

一年目はとにかく雪山滑ってましたね。誰も滑ってない場所に新雪が降って、誰も踏んでない所に突っ込んでく、あの気持ち良さはすごいです。筋斗雲を手に入れたような何とも言えない気持ちですね。どんどんパウダーを求めて、いろんな山に行ってました。雪降ったら、あっち行こうこっち行こうって滑ってましたね。

ープロを目指されてたんですか?

最初はプロを目指してやっていましたけど一年すると気付きますよね。ずっと都会にいた人間と雪でずっと遊んでた人間、こうも差が出るのかって言うくらい、全然違う。これは無理だな、と思いながらとりあえず楽しめるところまで楽しんで他に行こうかなって思っていました。ストリート系のスポーツって結局、発想が重要じゃないですか。何もないところに作り込んで、いかに遊ぶかアイデアを出し合う。一日中、人気のない山の中入って遊ぶ。その時に皆でカメラ持って写真撮ったり映像撮ったり遊びながら違う技術も覚えていました。スノーボードをしに山行くだけじゃなくて全てが遊びで学びでしたね。

ースノーボードから離れていったのはなぜですか?

スノーボードができない季節はバイトで運転手やっていました。で、そのまま就職したんです。一人でラジオや音楽聴きながら、ひたすら荷物積んで走っているのが好きだったんです。あと昔、シルヴェスター・スタローンの『オーバー・ザ・トップ』っていう映画があったんです。アームレスリングに憧れたんじゃなくて、トラックに乗って生活しているっていうのがすごく自由で憧れたんですよね。それで長距離の大型トラックで仕事しようと思いました。

ー銭湯業界に入るきっかけは何だったんですか?

自分が30歳くらいになった時に親父に「家の仕事大変だからちょっと手伝ってくんないか」って言われたからです。まだその時にはお風呂屋のビジョンが全然見えなかったので、まずお客さんが来ることに対して基本的なことをしていました。後はどうやってお客さんを入れてくのがいいのか他のお風呂屋さん行ったりして考えていましたね。
最初は親とは喧嘩しました。親は今までやり続けてきた以上のことはやりたくない。だけど、どうにかしたいっていう。もう矛盾がすごい生まれて。変えたいと思っていても、一緒にやってくれる仕事の相手がそうじゃないと、ああこれ無理だなと思ったんです。それでやめる方向で進んだんですね。でも、今の奥さんと出会って結婚することになった時に、「俺はお風呂屋さんやめて、他の仕事しようと思ってるから」って言ったら「もったいないんじゃない、私も仕事しながら手伝うから、やろうよ」って言ってくれたんです。それを機に本格的にお風呂屋さんをやり始めたんです。

ーじゃあその覚悟っていうのは奥さんのおかげだったんですね。

はい、そうですね。奥さんがいなければ、やめていたと思います。

ー最初はどんなことが大変でしたか?

それまでは SNS もやってなかった。SNS も作っただけじゃダメじゃないですか。それを更新して発信してかなきゃいけない。うちの奥さんが SNS のことをわかっていたんでつつかれて。毎日何かやんなきゃいけないんだっていうところの大変さはありましたね。
でも、よくよく考えるとスノーボードしていた時も、毎日何か違うことを作りながら遊んでいたので、そういったことをお風呂屋に落とし込んでやっていけばいいのかなっていう感じでした。一年目はネタ作りだとか、どうしていくかを生み出すのが大変でしたね。ぶつかることもありましたし。

ー継ぐと話した時のご両親の反応はどうでしたか?

大した反応もなかったですけどね。「ああやるんだ」くらいの感じですよね。続けられることだったら続けたいんだけど、どうしたもんかねみたいな。もう本当にテンションが違いすぎる。そこのジレンマはすごくあります。何かやるにも最初は文句言われますよ。でも成果が現れると「今日すごかったね」とか言ってきますね(笑)。

ー原さんから見て銭湯業界をどのように捉えてます?

銭湯業界は、まだまだこの先面白いなっていうのはあります。これからどんどん AI が発達してってデジタルの方向に向かってくと今まで人間がやってた仕事もなくなってくと思うんですが、人間が根本的に生きてくってことは変わらない。そういった中で人間をきれいにする機械やお風呂に入んなくても綺麗になる道具とか出てくるとは思うけど、お湯に浸かるとか、サウナに入るとかって、人間味のあることが求められるんじゃないかなとは思っています。
これから人は便利に生活するけど一歩下がった時、疲れた時に休む場所とかリラックスする場所とかって絶対必要になってくるので。

ー企画はどのように思いついているんですか?

最初は人なのかな。どういう人が関わってくれるかによって、その形態を変えていく。「こんなことしたい」って自分が言った時に、それに対して乗っかってきてくれた人と色々、企画を膨らませていきます。関わってくれた一人一人の持つポテンシャルによって変化していく。タイトルは後でつける感じですね。

ー最初に手応えがあった企画って何ですか?

コーヒー牛乳フェスです。本当、反応よすぎてびっくりしましたね。殿上湯も知られていなかったんで、頑張って100人来ればいいかなっていう話をしていたんです。蓋開けてみたら300人くらい来たんじゃないすかね。ずーっとバリスタさんがコーヒー淹れっぱなしでした。近所の人も近くでイベントがあったら来てくれる。だったら面白いことを企画して、楽しんでもらえるようなことをどんどんやってった方がいいねって気がついたキッカケでした。

ーその後は和太鼓、映画上映、ピアノのコンサートなど様々なイベントをしています。

そうですね。和太鼓やピアノに関しては持ち込みだったんです。ピアノはお風呂屋でコンサートやりたいって、どこも断られたらしいんですよ。うちに電話かかってきた時に、「いいっすよ」って言ったんです。そしたら「え? いいんすか?」って逆にびっくりされて(笑)。でも僕らとしてみると、いろんなところで断られたってすごいチャンスなんです。そうすると注目集まるなあと思ったんです。それをきっかけに、いろんなとこで断られた企画は全部うちで引き受けようと思いました。成功させちゃえばまた話題になるんです。

ー公衆浴場の定義を教えてください。

公衆浴場の定義上、別にオムツしてる子だって、刺青してる人だって、入れるのが公衆浴場の務めです。だから断る理由が僕はよくわかんないです。
温泉、サウナや個人でやっているところは色々なルールを作るとは思うんすけど、僕らは公衆浴場で、浴場組合に加盟している。公衆浴場っていう形でやってるからには基本的には断っちゃいけないんですよね。たまに一切断ってる銭湯もあるんですけ、逆に断っているほうがおかしくないかって思う時もあります。

ーオムツが取れていないと行ってはいけないようなイメージがありましたが、もっと身近なものだったんですね。

本当はそうなんですよ、断ること自体ダメなんですよ。知らず知らずに自分たちでルール作ってるところもありますけどね。

ー浴場組合ってどういう存在なんですか?

盛り上げてこうって形的には言うんすけど、それ盛り上がるのかなあっていうことの方が多いですよね(笑)。
組合から盛り上げるために、いろんなメーカーだとかに、「こういうことやりたいんです」って、一緒に作ってけばいいのに受け身になっちゃうんすよね。何か企画が持ち込まれた時、ピアノの時でもそうだけど「コンサートやりたい」じゃあうちの方では「ドリンクやらして」とか「フードも出せるのでやらしてくれないか」っていう話を持っていくと、またそのイベントが膨らむ。お客さんも楽しんでもらえるようになるじゃないですか。でも、大体のお風呂屋さんが自分たちで何か動くっていうことは、根本的にない。それでは多分やっていても意味ないって思います。僕らは企画持ち込まれたら、その企画に対して何を提供して、そのイベント自体を膨らませるかっていうことは重要にしています。

ーお湯のこだわりを教えてください。

お湯を怒らせない。100度にしちゃうと水自体にトゲが出てきちゃうんで、そのあといくら下げてもトゲが残っちゃう。だから沸騰させないでお湯を作る方法で自分はやっています。100度のお湯を水で薄めて40度にするのと、水をゆっくり40度にしても、わからない人にはわかんないと思うんです。でもたまに「ここのお湯なんか違うんだよね」って言われた瞬間はすごい嬉しいですよね。その「なんか」でいいなと思ってます。それを作り出せるのは、やっぱり水と火だけなんです。どう沸かすかによって言葉に表せないものができるってこれも一つの面白さだなって思っています。

ーその方法を5代目で気付くってすごいですよね。

おばあちゃん達は多分生きるか死ぬかで、お風呂屋をやっていたと思うんです。周りにお風呂を持った人達もいないし、お風呂屋は生活の重要なもののひとつだったんですよね。がむしゃらで、そこには行き着かなかったと思うんです。自分は人と話したり聞いたりする中で、わかったことがある以上は取り入れました。言葉できちんと表現できるものよりも「なんか違う」の「なんか」の方が、人の心や記憶に残りやすいかなって。だからそういうものを知らない間にお客さんに提供して。「なんか良かったからもう一回行ってみたいな」って思われるようにしたいなっていつも思いますね。

ー殿上湯の住み込み制度はいつからやっているのですか?

僕が生まれた時から常に知らない人が住んでたんですよ。だから知らない人がいるのが当たり前でした。逆に家族だけでいるのが気持ち悪い(笑)。他人がいてくれた方が、話題が生まれやすいし、居心地が良い。

ーそれは誰が始めたんですか?

昔のお風呂屋さんって人手のかかる商売だったんで、女中さんや番頭さんいろんな人が住み込みで働いてたらしいんです。だからうちの親父も常に身内じゃない人たちと家族同然のように住んでたんで。それを自然に今もやり続けてるって感じですね。

ー銭湯はどんな場所ですか?

銭湯って特に親子だと、近所でちょっとした思い出を作れる場所なんです。ご飯食べた思い出より家族で銭湯行って帰りにコーヒー牛乳飲んだっていう方が思い出に残るんです。だから、お風呂屋の中にバーを作っちゃえば、お父さんがハイボール飲んでいる横で子どもがアイス食ったりジュース飲んだりできて絶対いい思い出になるなと思って作ったんです。親子で安心して夜遊びできる場所がお風呂屋なのかなとは思いますね。帰りにお母さんに内緒で食べさせてもらったアイスの味の方が、思い出に残るじゃないですか。

ー今後はどのように活動していきますか?

お風呂屋さんも色々な屋号があるんです。結構かぶる屋号って多いんですよね。「寿湯」とか「富士の湯」とか。けど「殿上湯」って唯一無二の名前なんです。それは、この土地が由来してて昔、飛鳥山の方が徳川将軍の鷹狩りや犬追いをやった場所で、ここら辺が休憩する場所だった。それで「字殿上」っていう地名だったらしいんですよね。それをとって「殿上湯」になりました。
名前のようにお風呂屋として、うちだけでしかできないような唯一無二のイベントやコンテンツの銭湯を作り上げたいなっていうのはあります。銭湯としての根本的なところは変わらない。ちょっと違ったことやってるよねって言われるようにはしたいです。近所の人たちが「あんな面白い銭湯があって良かったな」って言ってくれるような。近所の子が「うちの近くに殿上湯ある」って言ったら「えっ、いいなあ」って言われるような、そんな銭湯になりたいなとは思ってます。

原延幸
1975年、東京生まれ。
5代目殿上湯オーナー

Photo:Makoto Nakamori
Text:Makiko Namie, Makoto Nakamori

お湯を怒らせない

原 延幸 #湯屋

子どもの頃、何を考えていたか。今思えば何も考えていなかった。
自慢できるような趣味もなければ勉強もできたわけじゃない。
ただ当たり前が終わると気がついたのは父親が死んでからだ。
それも時間がたてば日常になってくる。
原さんは言う「思い出を作れる場所」。
普通を保ってくれる人がいるから僕らは生きていける。
その場所の思い出は自分を形成する一部になる。

ー殿上湯の歴史を教えてください。

曽祖父が阿佐ヶ谷、動坂、巣鴨で3軒ぐらいやっていたんですが空襲で焼けてしまった。その銭湯を復活させるために必死になって動き回った。なんとか戦後、その3軒復活させたんですが色々あって全てをたたんでしまった。それで今の殿上湯が売りに出ていたので買って、駒込に引っ越してきたんですよね。
当時は何軒かお風呂屋さんが売りに出てたらしいんですよ。ここを選んだ理由は関東大震災の時、東京中が焼け野原ですごい火事だった。暗い方暗い方って逃げてったら、ここにたどり着いたらしいです。ここら辺は家も崩れてないし地盤が固いっていうことが記憶に残っていたそうです。
空襲のときも、ここは高台なので下が空襲で焼けても火が上がって来ない。それも考慮したらしいです。あと水が良いんです。井戸水が出るんですよ。戦時中は井戸を使っていた家は、軍隊の飲み水として押さえられたみたいです。そのぐらい水が良かったのも決めてだったみたいです。

ー原さんの子どもの時の思い出は何ですか?

気が付いたらもうお風呂屋の子どもだったので知らず知らずに受け入れてました。受け入れてたというか大きいお風呂に入るのが当たり前だった。小学生ぐらいになると、まだ近所の家族とか友達もお風呂に入りに来る人たちが多かったのでお風呂場で遊んでるっていう感じでしたね。仲良い友達と湯船入りながら話したり遊んだり。結構長い時間お風呂で遊んでても誰も心配しない。小学生にとっての親公認の夜遊びの場所だったのかなって思います。

ー銭湯のお手伝いはいつからしていたんですか?

中学生からです。一番下の妹が俺が中学二年生の時に生まれたんで夏休みには手伝いをしていました。仕込み、番台、閉める作業も覚えた。高校に入った時には自然と全部できるようになってましたね。

ーその頃は銭湯を継ぐ意識でやっていたんですか?

継ぐなんてことは考えてなかったですね。でも何だろう、手伝うからには、こうしたほうがいい、ああしたほうがいいっていうのはあったんですけど。別に将来的にお風呂屋さんをこうしたいっていうビジョンは全然なかったですね。

ー高校卒業後はカメラマンのアシスタントをしたそうですが?

おじさんの知り合いのカメラマンがアシスタントを探していると言われて入りました。高校卒業後の進路を決めていなかったので。写真やカメラには興味がなかったんですが、全然知らない世界に飛び込んでみるのもありかなと思いました。

ーアシスタントの経験はいかがでしたか?

そのカメラマンは車のカタログ写真を撮っていて。朝スタジオに入って終わったころには真っ暗。なんかモグラみたいな生活だなと思いましたね(笑)。
ライティングもカメラマンの仕事じゃないから、ひたすら後ろで待ってるだけ。カメラマンはシャッター切るだけ。もう何にもやることないんですよ。あれ? アシスタントで仕事あるようなこと聞いてたけど、何もねえぞと思って。なんか悶々としてましたよね。

ーアシスタントは続けられたんですか?

すぐに辞めました(笑)。高校生の頃、雑誌にスノーボードの写真が載っているのを見て、やってみたいって思ったんです。それでスノーボードのビデオ『ROADKILL』を買ってきて見たらもう完全にやられて。スノーボードがしたくて卒業旅行で友達と行ったら完全にハマった。卒業して、アシスタントになったけど、ただジーッとしている生活に悶々として、冬に近づくほど、「やっべ……やりたい」と思うようになってきて夏過ぎたぐらいに、「すいません、辞めます」って(笑)。

ー自分のやりたいことに進んだんですね。

仕事辞めた時、岩手の知り合いから「ペンション住み込みで紹介してあげるから、来れば」って言われて。もう本当、板とウェアだけ持って行きました。何かやる時って友達と行くより一人で行って、そこで友達作っちゃった方が世界が広がるなと思ったので周りの意見は気にせず行きました。

ーどうでしたか? スノーボード中心の生活は。

一年目はとにかく雪山滑ってましたね。誰も滑ってない場所に新雪が降って、誰も踏んでない所に突っ込んでく、あの気持ち良さはすごいです。筋斗雲を手に入れたような何とも言えない気持ちですね。どんどんパウダーを求めて、いろんな山に行ってました。雪降ったら、あっち行こうこっち行こうって滑ってましたね。

ープロを目指されてたんですか?

最初はプロを目指してやっていましたけど一年すると気付きますよね。ずっと都会にいた人間と雪でずっと遊んでた人間、こうも差が出るのかって言うくらい、全然違う。これは無理だな、と思いながらとりあえず楽しめるところまで楽しんで他に行こうかなって思っていました。ストリート系のスポーツって結局、発想が重要じゃないですか。何もないところに作り込んで、いかに遊ぶかアイデアを出し合う。一日中、人気のない山の中入って遊ぶ。その時に皆でカメラ持って写真撮ったり映像撮ったり遊びながら違う技術も覚えていました。スノーボードをしに山行くだけじゃなくて全てが遊びで学びでしたね。

ースノーボードから離れていったのはなぜですか?

スノーボードができない季節はバイトで運転手やっていました。で、そのまま就職したんです。一人でラジオや音楽聴きながら、ひたすら荷物積んで走っているのが好きだったんです。あと昔、シルヴェスター・スタローンの『オーバー・ザ・トップ』っていう映画があったんです。アームレスリングに憧れたんじゃなくて、トラックに乗って生活しているっていうのがすごく自由で憧れたんですよね。それで長距離の大型トラックで仕事しようと思いました。

ー銭湯業界に入るきっかけは何だったんですか?

自分が30歳くらいになった時に親父に「家の仕事大変だからちょっと手伝ってくんないか」って言われたからです。まだその時にはお風呂屋のビジョンが全然見えなかったので、まずお客さんが来ることに対して基本的なことをしていました。後はどうやってお客さんを入れてくのがいいのか他のお風呂屋さん行ったりして考えていましたね。
最初は親とは喧嘩しました。親は今までやり続けてきた以上のことはやりたくない。だけど、どうにかしたいっていう。もう矛盾がすごい生まれて。変えたいと思っていても、一緒にやってくれる仕事の相手がそうじゃないと、ああこれ無理だなと思ったんです。それでやめる方向で進んだんですね。でも、今の奥さんと出会って結婚することになった時に、「俺はお風呂屋さんやめて、他の仕事しようと思ってるから」って言ったら「もったいないんじゃない、私も仕事しながら手伝うから、やろうよ」って言ってくれたんです。それを機に本格的にお風呂屋さんをやり始めたんです。

ーじゃあその覚悟っていうのは奥さんのおかげだったんですね。

はい、そうですね。奥さんがいなければ、やめていたと思います。

ー最初はどんなことが大変でしたか?

それまでは SNS もやってなかった。SNS も作っただけじゃダメじゃないですか。それを更新して発信してかなきゃいけない。うちの奥さんが SNS のことをわかっていたんでつつかれて。毎日何かやんなきゃいけないんだっていうところの大変さはありましたね。
でも、よくよく考えるとスノーボードしていた時も、毎日何か違うことを作りながら遊んでいたので、そういったことをお風呂屋に落とし込んでやっていけばいいのかなっていう感じでした。一年目はネタ作りだとか、どうしていくかを生み出すのが大変でしたね。ぶつかることもありましたし。

ー継ぐと話した時のご両親の反応はどうでしたか?

大した反応もなかったですけどね。「ああやるんだ」くらいの感じですよね。続けられることだったら続けたいんだけど、どうしたもんかねみたいな。もう本当にテンションが違いすぎる。そこのジレンマはすごくあります。何かやるにも最初は文句言われますよ。でも成果が現れると「今日すごかったね」とか言ってきますね(笑)。

ー原さんから見て銭湯業界をどのように捉えてます?

銭湯業界は、まだまだこの先面白いなっていうのはあります。これからどんどん AI が発達してってデジタルの方向に向かってくと今まで人間がやってた仕事もなくなってくと思うんですが、人間が根本的に生きてくってことは変わらない。そういった中で人間をきれいにする機械やお風呂に入んなくても綺麗になる道具とか出てくるとは思うけど、お湯に浸かるとか、サウナに入るとかって、人間味のあることが求められるんじゃないかなとは思っています。
これから人は便利に生活するけど一歩下がった時、疲れた時に休む場所とかリラックスする場所とかって絶対必要になってくるので。

ー企画はどのように思いついているんですか?

最初は人なのかな。どういう人が関わってくれるかによって、その形態を変えていく。「こんなことしたい」って自分が言った時に、それに対して乗っかってきてくれた人と色々、企画を膨らませていきます。関わってくれた一人一人の持つポテンシャルによって変化していく。タイトルは後でつける感じですね。

ー最初に手応えがあった企画って何ですか?

コーヒー牛乳フェスです。本当、反応よすぎてびっくりしましたね。殿上湯も知られていなかったんで、頑張って100人来ればいいかなっていう話をしていたんです。蓋開けてみたら300人くらい来たんじゃないすかね。ずーっとバリスタさんがコーヒー淹れっぱなしでした。近所の人も近くでイベントがあったら来てくれる。だったら面白いことを企画して、楽しんでもらえるようなことをどんどんやってった方がいいねって気がついたキッカケでした。

ーその後は和太鼓、映画上映、ピアノのコンサートなど様々なイベントをしています。

そうですね。和太鼓やピアノに関しては持ち込みだったんです。ピアノはお風呂屋でコンサートやりたいって、どこも断られたらしいんですよ。うちに電話かかってきた時に、「いいっすよ」って言ったんです。そしたら「え? いいんすか?」って逆にびっくりされて(笑)。でも僕らとしてみると、いろんなところで断られたってすごいチャンスなんです。そうすると注目集まるなあと思ったんです。それをきっかけに、いろんなとこで断られた企画は全部うちで引き受けようと思いました。成功させちゃえばまた話題になるんです。

ー公衆浴場の定義を教えてください。

公衆浴場の定義上、別にオムツしてる子だって、刺青してる人だって、入れるのが公衆浴場の務めです。だから断る理由が僕はよくわかんないです。
温泉、サウナや個人でやっているところは色々なルールを作るとは思うんすけど、僕らは公衆浴場で、浴場組合に加盟している。公衆浴場っていう形でやってるからには基本的には断っちゃいけないんですよね。たまに一切断ってる銭湯もあるんですけ、逆に断っているほうがおかしくないかって思う時もあります。

ーオムツが取れていないと行ってはいけないようなイメージがありましたが、もっと身近なものだったんですね。

本当はそうなんですよ、断ること自体ダメなんですよ。知らず知らずに自分たちでルール作ってるところもありますけどね。

ー浴場組合ってどういう存在なんですか?

盛り上げてこうって形的には言うんすけど、それ盛り上がるのかなあっていうことの方が多いですよね(笑)。
組合から盛り上げるために、いろんなメーカーだとかに、「こういうことやりたいんです」って、一緒に作ってけばいいのに受け身になっちゃうんすよね。何か企画が持ち込まれた時、ピアノの時でもそうだけど「コンサートやりたい」じゃあうちの方では「ドリンクやらして」とか「フードも出せるのでやらしてくれないか」っていう話を持っていくと、またそのイベントが膨らむ。お客さんも楽しんでもらえるようになるじゃないですか。でも、大体のお風呂屋さんが自分たちで何か動くっていうことは、根本的にない。それでは多分やっていても意味ないって思います。僕らは企画持ち込まれたら、その企画に対して何を提供して、そのイベント自体を膨らませるかっていうことは重要にしています。

ーお湯のこだわりを教えてください。

お湯を怒らせない。100度にしちゃうと水自体にトゲが出てきちゃうんで、そのあといくら下げてもトゲが残っちゃう。だから沸騰させないでお湯を作る方法で自分はやっています。100度のお湯を水で薄めて40度にするのと、水をゆっくり40度にしても、わからない人にはわかんないと思うんです。でもたまに「ここのお湯なんか違うんだよね」って言われた瞬間はすごい嬉しいですよね。その「なんか」でいいなと思ってます。それを作り出せるのは、やっぱり水と火だけなんです。どう沸かすかによって言葉に表せないものができるってこれも一つの面白さだなって思っています。

ーその方法を5代目で気付くってすごいですよね。

おばあちゃん達は多分生きるか死ぬかで、お風呂屋をやっていたと思うんです。周りにお風呂を持った人達もいないし、お風呂屋は生活の重要なもののひとつだったんですよね。がむしゃらで、そこには行き着かなかったと思うんです。自分は人と話したり聞いたりする中で、わかったことがある以上は取り入れました。言葉できちんと表現できるものよりも「なんか違う」の「なんか」の方が、人の心や記憶に残りやすいかなって。だからそういうものを知らない間にお客さんに提供して。「なんか良かったからもう一回行ってみたいな」って思われるようにしたいなっていつも思いますね。

ー殿上湯の住み込み制度はいつからやっているのですか?

僕が生まれた時から常に知らない人が住んでたんですよ。だから知らない人がいるのが当たり前でした。逆に家族だけでいるのが気持ち悪い(笑)。他人がいてくれた方が、話題が生まれやすいし、居心地が良い。

ーそれは誰が始めたんですか?

昔のお風呂屋さんって人手のかかる商売だったんで、女中さんや番頭さんいろんな人が住み込みで働いてたらしいんです。だからうちの親父も常に身内じゃない人たちと家族同然のように住んでたんで。それを自然に今もやり続けてるって感じですね。

ー銭湯はどんな場所ですか?

銭湯って特に親子だと、近所でちょっとした思い出を作れる場所なんです。ご飯食べた思い出より家族で銭湯行って帰りにコーヒー牛乳飲んだっていう方が思い出に残るんです。だから、お風呂屋の中にバーを作っちゃえば、お父さんがハイボール飲んでいる横で子どもがアイス食ったりジュース飲んだりできて絶対いい思い出になるなと思って作ったんです。親子で安心して夜遊びできる場所がお風呂屋なのかなとは思いますね。帰りにお母さんに内緒で食べさせてもらったアイスの味の方が、思い出に残るじゃないですか。

ー今後はどのように活動していきますか?

お風呂屋さんも色々な屋号があるんです。結構かぶる屋号って多いんですよね。「寿湯」とか「富士の湯」とか。けど「殿上湯」って唯一無二の名前なんです。それは、この土地が由来してて昔、飛鳥山の方が徳川将軍の鷹狩りや犬追いをやった場所で、ここら辺が休憩する場所だった。それで「字殿上」っていう地名だったらしいんですよね。それをとって「殿上湯」になりました。
名前のようにお風呂屋として、うちだけでしかできないような唯一無二のイベントやコンテンツの銭湯を作り上げたいなっていうのはあります。銭湯としての根本的なところは変わらない。ちょっと違ったことやってるよねって言われるようにはしたいです。近所の人たちが「あんな面白い銭湯があって良かったな」って言ってくれるような。近所の子が「うちの近くに殿上湯ある」って言ったら「えっ、いいなあ」って言われるような、そんな銭湯になりたいなとは思ってます。

原延幸
1975年、東京生まれ。
5代目殿上湯オーナー

Photo:Makoto Nakamori
Text:Makiko Namie, Makoto Nakamori