天才みたいなものをあまり信用してない。

若木信吾 #写真家

生きていると、どんどん増えてくる「なにか」をなるべく見ないように生きている。
自分の幸せしか願っていない人は何となくわかるものだ。
写真家が売れれば華やかな暮らしができるだろう。羨望を浴びる人もいる。
若木さんは自らで多くのことを提示している。写真、出版、本屋、絵本。
「お金つかってるよね」と笑って言うが僕は周りも幸せにしながら進む姿勢に背筋が伸びる。
そんな大人は滅多にいない。
インタビュー中に呟いた「そのやり方だとスターにはなれない」。スターを目指す人生を僕はまだ諦めていない。

ー写真を撮り始めたのはいつごろですか?

小学生くらいかな。記念写真を撮るのがいつの間にか自分の役割になってたんだよね。

ー子どもの頃から写真家になりたかったのでしょうか?

写真を始める前は漫画家になりたかった。漫画好きだったから。アニメ雑誌が出始めた頃で、そこでアニメーターっていう職業とかを知るわけよ。それで自分で漫画描いたりしてたの。でも絵は別に上手くないし、写真の方が簡単だから写真にいったんだよね。

ー若木さんが周りの人を撮り始めたのはなぜですか?

田舎だから人いないじゃん。子どもだし同級生か家族ぐらいしかいない。写真に付き合ってくれるのはおじいちゃんだけだったから、単純にそれだけ。その人たちを使っていかに自分の好きな写真に近づけるかをやってた。今思えば練習というか。その当時は真剣にやっていたと思うけど。

ー子どものころ好きな写真家がラルティーグだったのはなぜだったんですか?

楽しそうじゃん。それが一番好きな理由。明るい雰囲気が好きなんだ。大人は暗い場所や怖い場所にいても立ち向かえる何かがあるじゃん。子どもって、そういうものがないから怖さには怖さしかない。70年代って怖い写真が多かった。森山大道さんも荒木経惟さんもいたし、アサヒカメラ見ても濃いモノクロの写真とか強い写真しかなかったから、子どもながらに怖いなーと思ってた。アメリカの写真、ブルース・ウェーバーとかハーブ・リッツとか楽しそうにやっているのを見て、闇のなさに憧れてたんだろうね。

ーアメリカのニューヨーク州ロチェスター工科大学写真学科にされます。そこでの授業内容はクリティーク(批評)がメインだったとお聞きしていますが、どんな授業だったんですか?

単純に自分が撮った写真は自分で説明しろってことだと思うのね。まずプレゼンテーションをしなきゃいけない。
子どもが何かやったら親や先生が褒めてくれる。誰かが褒めて終わり。本人の言葉を誰も聞こうとしないじゃん、それがやっぱりよくない。自分はどんな意図でこれを作ったかちゃんと説明できなきゃダメ。
授業では言葉が達者な奴もいたんだけど、写真は百聞は一見にしかず。どんだけ喋っても写真が良くないもんは良くない。自分は子どもの頃からいろんな写真を見てるから、すぐ分かる。モノがいいからってふんぞり返っていてもダメ。プレゼンもモノも良くないとダメ。そんなことを授業で勝手に学ぶ。先生は何も言わない。一種のプロセスをやっているだけだからね。本気の人たちを相手に自分の写真を説明していかなきゃいけないし、人の写真に対しても何か一言、言わないといけない。大学行ったところで英語は喋れるわけじゃないから必死でやる。みんなも温かい目だった、留学生だからさ。写真は良かったと思うんだ、自分の中で気に入っていたから。

ー大学生活で夢中になっていたことは何ですか?

90年初期一番クリエーティブに見えたファッション写真を撮ったり。アメリカに行きたかったのは、写真はもちろん、カルチャーも好きだったから色々やったよ。俺らの世代は映画や音楽もアメリカ全盛時代だから、その憧れがあるじゃん。ヒップホップが好きだったからレコード屋に行ってターンテーブルとかミキサー買って DJ やったり。友達にスケーターがいたからスケボーもしたり。スケボーショップは田舎でもあるから洋服のテイストがそっちにいったり。それまでは GAP で買っていたんだけどね。

ー在学中も一時帰国した際にはおじいさんを撮影していました。なぜ撮り続けていたんですか?

大学に入るためのポートフォリオもおじいちゃんの写真だったから、ずっと撮り続けた。なんかよくわかんないけど絵になった。それは他の人を撮っても、親父を撮ってもそうならない。だから必然とおじいちゃんを撮ることが多かった。でもそれは本当の作品だと思ってなかったんだよ。
ある日、アヴェドンやアーバスが周りの人を撮っている写真を見て、この人達がいいと思っていた被写体は身近な人だったんだっていうことが分かってくる。単純に良い写真だなって思っていたんだけどバックステージというかビハインドザシーン的なものを知って、自分がやっていることと同じだったんだなって分かる。それで夏休みに帰った時に一生懸命撮ったんだよね。それが最初だね、ちゃんと撮り始めたのは。

ー高橋恭司さんと出会ったことがきっかけでアイルランドに行かれそうですが、どのように知り合ったんですか?

日本で営業に行った時、「エスクァイア」の編集者と知り合うんだけど、その人から高橋恭司さんって写真家がニューヨークに行くから手伝ってくれませんか? って連絡があって。当時、コーディネーターはまだ少なかったから、ストロボ借りたりタクシー用意したり段取り全部やらしてもらって。
仕事が終わって「明日何してるんですか?」って聞いたらぶらぶらするって言うから「荷物持ちさせてくださいよ」って言って。ゴロゴロ機材を引っ張ってマンハッタン中歩いて撮影のお手伝いをさせてもらったんだよね。
その時、自分はファッションって考えが中心だった。いかにモデルを見つけて作品撮りして業界に行こうかと思ってた。けど、日本の人達は現在のアメリカを見てないわけよ。アメリカが持ってきた写真史全体でインプットされてるじゃん。ロバート・フランク=アメリカだと思ってる。でもアメリカではロバート・フランク知っている人ほとんどいないからね。アニー・リーボヴィッツの方が有名なわけ。当時は特にね。けど日本から来る人にとっては大スターじゃん。そういうロバート・フランクとか歴史のアメリカ人が撮ったニューヨークを見たいわけよ。でも、当時の自分はそういうことを全く知らない。
恭司さんが川に 8×10 向けてるのを見て、何を撮っているのかな? って思うわけよ。何もそこに対象物がない。ただ川が流れているだけ。そのうち一日中いたら夕方になってきて、ギャラ要らないんで撮ってもらえませんか? ってお願いしたら撮ってもらえることになって。向こうはギャラとか元々払うつもりもなかったと思うんだけど(笑)。撮られたら何を撮ろうとしているのか分かるはずだと思ってたんだけど全然わかんなかった。

ー日本に戻るきっかけは何だったんですか?

アイルランドに撮影で行ったとき高橋恭司さんの撮影スタイルを思い出して、そしたらラルティーグのことを思い出したの。学校に入ってからファションのことに一生懸命で、ラルティーグなんてすっかり頭の中から忘れてた。その気持ちというか楽しい明るい雰囲気、旅の写真をきちんとやったら良いかもなって思ってアイルランドの写真を本にまとめたのね。誰の写真集に似せようとか誰に近づけようとは全く無く、その時に撮った中で自分の一番好きな写真をまとめた。それを日本に持って帰ったらものすごく評判が良くて、すぐに仕事が始まったんだよね。マネジメントもついたし日本で働いてそのお金でニューヨークで暮らしてっていうのが始まった。泥沼の暮らしだったけどニューヨークは楽しかった。友達もいたし最先端なことも知れるしアートギャラリーも見られる。大学卒業して4年ぐらいはアメリカと日本を行き来していたんだけど、大きな広告の仕事ができるようになるとそれを蹴ってまでアメリカには行かないわけよ。それで徐々に日本に戻ってきた。

ー『希望をくれる人に僕は会いたい』、若木さんが自らインタビューをして書いた本があります。文章の書き方はどのように身につけたんですか?

書き方を悩むってことはないんだけど……読んだりしてると書けるようになるのかね。でも日本語の文章を読んでいると書けなくなる。構成の話だと思う。書き出しって難しいじゃん。だけど、外国の新聞や雑誌の書き出しはだいたい決まってるのね。映画のように始まる。そういうのが好きだから日本語でもそんな風に書けば良いんだと思ったら楽になった。

ー2004年〜2008年に「youngtreepress」という雑誌を作っています。なぜ自ら雑誌を作ろうと思ったんですか?

ニューヨークにいた頃仕事をしていた「The New York Times Magazine」は、ライターが先に記事を作り上げてきて、その記事を読んで写真を撮りにいく。ライターの人たちの取材力がすごい強いんだよね。一回だけでなく、何度も会って話を聞いて記事を作る。本当にこの人のストーリーを書こうと思っているから熱量がある。そういう仕事の仕方が日本に帰ってきたら全くない。出来上がった文章が面白いことも物語性もない。そんなことを思っていた時に「Double Take」っていう雑誌を見たんだけど、まさに文章と写真の雑誌だった。表現方法としての文章、表現方法としての写真が一体化して一冊にまとまった雑誌だったんだよね。それが面白いなと思った。それに取材性みたいなものを合体させて、今まで日本にはない雑誌を自分で作ろうと思った。単純に興味だけ、やったらどうなるんだろうなって気持ちだった。

ー「youngtreepress」は10号で終わっています。それはなぜですか?

仕事してると色々なところからヒントが得られるじゃない? ビジネスに関することも全て。大体、新しい雑誌は3号くらいで終わる。じゃあ3号以上作ったら、ちゃんとしたものを10号出したら自己満足で終わらない、見てくれる人が信念を感じとってくれるものができると思って続けたんだよね。10号やるうちにビジネスモデルとして成り立たなかったら、やっても意味ないなっていうのもあった。一応、広告ページも無理やり作ってた。素人ながらの苦策というか、広告の仕組みなんてよくわからなかったのに。簡単ではなかったけど広告は出してもらえた。それでうまく続いて10号まではできました。

ー復刊を考えたりはしますか?

実は今、作ってる。2021年の秋に復刊する予定で仕込んでる最中です。時代が時代ゆえ、今回、広告ページは難しいかもしれないから雑誌という形じゃないかもしれないけど、乞うご期待です。

ー若木さんは映画も撮られていますね? どのようなきっかけで映画を撮ることを決めたんですか?

PV は何本か撮っていて……それで有名な映画監督がプロデュースする PV の監督に候補で挙がったことがあったの。打ち合わせして曲聴いて、そのために脚本を書いたんですよ。書き方も知らなかったから西川美和さんに手伝ってもらって仕上げたんです。でも蹴られて、お蔵入りになっちゃったの。それで5年後くらいに知り合いのプロデューサーから映画を撮ろうと思っているんですが良い脚本知らない? って聞かれた時に「めっちゃ良いのありますよ!」って自分の脚本を持っていった。そしたら採用されて。やったー! という気持ちで作らせてもらいました。面白かった。全部一からだから。

ー写真家と映画監督の似ている部分って何ですか?

写真家と監督って似ているようで似てない。圧倒的に写真と同じだと思うのは、世界観を作るっていうこと。その世界観を頭から最後まで突き通せるかどうかっていうのは写真家と同じだと思う。でも、映画はいろんな人が関わって、いろんな人の役割を尊重しなきゃいけないっていうところが違うかな。

ー「白河夜船」の桃子さんが悶えながら脱いでいく長尺のシーンが好きです。

あのシーンは「controversial」なんだよね。何であれやるんだっていう意見もあった。でも写真家冥利に尽きるじゃない。写真家としてはものすごい楽しい瞬間だった。けど映画を映画として見る人にとっては、だらだら長いシーンがあるな〜って思われてるんじゃないかな(笑)。

ー2010年に地元の浜松でBOOKS AND PRINTSを作りますが、どのような思いで作られたんですか?

浜松は地元だからやりやすいと思っただけ。言っといたらやるかもな〜って軽い気持ちで始めたの。皆、自分を縛りすぎる。自分はこんな写真しか撮らないとか変なルール作っちゃうよね、誰にも頼まれてないのに。それはおかしい。別に何でもやります、でいいじゃん。あれも写真だしこれも写真だし。作家性とか作品性みたいなこと考えて自分を縛り付けちゃう。そうじゃなくて、もうちょっと引いて写真という事柄とか写真というものは何なのかが知りたい。それは、やってみたら分かるかもしれないし全部繋がってると思ってる。写真に繋がることは全てを網羅したいんだよね。

ー2018年に若芽舎を立ち上げたのはなぜですか?

自分の子どもが生まれてから色々と絵本を読むじゃない? 読み聞かせが大事だっていうのもどっかで知って。子どもは何かしら本に近づけたいと思っていた。0歳の時にサイ・トゥオンブリーの画集とか見せたんだけど全然反応なくて(笑)。だけど、トゥオンブリーの描いた曲線を指でなぞったり言葉を適当につけると喜ぶ。読んであげる人が面白がってあげないとダメでコミュニケーションの問題だってわかったんだよね。0のところに何を見せてもわからない。見せ方とかは教えてあげなきゃいけないっていうことが分かった。
それで、どういうことに反応して何が好きでどうすれば子どもが喜ぶか、そこを踏まえれば本が作れるんじゃないかと思って。今、一番売れている絵本って紹介されるのは50〜70年代の本が多い。永遠とベストセラーになっている。新しいものを作ろうとしているのかもしれないけど、自分もそこへ挑戦してみるのもいいかもなって。幸いにイラストレーターの知り合いもいたし、今の時代に今の人たちと今の子どもたちに向けて絵本を作りたいと思ったの。楽しそうだなって。

ーもうすぐ若木さんは50歳になりますが、振り返って順調だと思っていますか?

仕事は客観的に見れば順調かもしれないけど、欲が深いから自分では順調だと思っていない。そうじゃなければ次にやる気が起きない。

ー色々な人と仕事をすることができた理由は何だと思いますか?

自分から行くことだろうね。自分は作家だっていう驕りが始まる。売れてくると、すっかり神輿に担がれて俺はいけてんなってめんどうくさい奴になる時期があるのよ。俺もあったし。今でもそうかもしれないんだけど(笑)。それでも自分の好きな人、信念を持ってやっている人たちに連絡する。偉くなってくると自分から連絡しなくなる。黙っててもくるから。自分のいる世界が普通になるとダメで、外にはもっと高いレベルのものがあるって認識を常にもっている。無名じゃん、俺なんて。ティルマンスは知ってるけど俺のこと知らないじゃん。同じ時間軸に生きてるんだから偉そうにしてるわけにもいかない。目指しているわけでもないけど。ある程度やっていきたいし、残していきたいと思っています。

ー今後はどのように残していこうと思っているんですか?

50歳は結構やばいと思っていて……50〜60歳の間は20代と同じようにやらなきゃいけないと思っている。20代と同じぐらい気持ちになってやらないと60歳以降はないと思ってる。ひしひしとくるよ(笑)。40代はじめは50歳になったら好きなことやるぞって思ってたけど、意外にそうもいかない。当たり前だけど大事なのは人よりやること。人がやっていることは当然できて、それ以外のことは夜中とかみんなが遊んでいる時にやらなきゃいけない。いきなり大きいことはできないよ、コツコツ系だから俺。才能ないけど頑張るタイプだから基本は。天才みたいなものをあまり信用してない。基本は努力の人。

若木信吾(写真家・映画監督) 
1971年静岡県浜松市生まれ。
ニューヨーク・ロチェスター工科大学写真学科卒業後、雑誌・広告や音楽媒体など幅広い分野で活躍。
自身の祖父を撮り続けた代表作の写真集「Takuji」が、国内外で高い評価を受ける傍ら、雑誌「youngtreepress」の編集発行、映画「星影のワルツ」の制作、2010年には故郷の浜松に書店「BOOKS AND PRINTS」をオープンさせるなど、活動の場を広げている。
新作写真集「Things and seen」スーパーラボ刊 発売中

HP : shingowakagi
Instagram : @swakwack
Twitter : @youngtreepress
note : note

天才みたいなものをあまり信用してない。

若木信吾 #写真家

生きていると、どんどん増えてくる「なにか」をなるべく見ないように生きている。
自分の幸せしか願っていない人は何となくわかるものだ。
写真家が売れれば華やかな暮らしができるだろう。羨望を浴びる人もいる。
若木さんは自らで多くのことを提示している。写真、出版、本屋、絵本。
「お金つかってるよね」と笑って言うが僕は周りも幸せにしながら進む姿勢に背筋が伸びる。
そんな大人は滅多にいない。
インタビュー中に呟いた「そのやり方だとスターにはなれない」。スターを目指す人生を僕はまだ諦めていない。

ー写真を撮り始めたのはいつごろですか?

小学生くらいかな。記念写真を撮るのがいつの間にか自分の役割になってたんだよね。

ー子どもの頃から写真家になりたかったのでしょうか?

写真を始める前は漫画家になりたかった。漫画好きだったから。アニメ雑誌が出始めた頃で、そこでアニメーターっていう職業とかを知るわけよ。それで自分で漫画描いたりしてたの。でも絵は別に上手くないし、写真の方が簡単だから写真にいったんだよね。

ー若木さんが周りの人を撮り始めたのはなぜですか?

田舎だから人いないじゃん。子どもだし同級生か家族ぐらいしかいない。写真に付き合ってくれるのはおじいちゃんだけだったから、単純にそれだけ。その人たちを使っていかに自分の好きな写真に近づけるかをやってた。今思えば練習というか。その当時は真剣にやっていたと思うけど。

ー子どものころ好きな写真家がラルティーグだったのはなぜだったんですか?

楽しそうじゃん。それが一番好きな理由。明るい雰囲気が好きなんだ。大人は暗い場所や怖い場所にいても立ち向かえる何かがあるじゃん。子どもって、そういうものがないから怖さには怖さしかない。70年代って怖い写真が多かった。森山大道さんも荒木経惟さんもいたし、アサヒカメラ見ても濃いモノクロの写真とか強い写真しかなかったから、子どもながらに怖いなーと思ってた。アメリカの写真、ブルース・ウェーバーとかハーブ・リッツとか楽しそうにやっているのを見て、闇のなさに憧れてたんだろうね。

ーアメリカのニューヨーク州ロチェスター工科大学写真学科にされます。そこでの授業内容はクリティーク(批評)がメインだったとお聞きしていますが、どんな授業だったんですか?

単純に自分が撮った写真は自分で説明しろってことだと思うのね。まずプレゼンテーションをしなきゃいけない。
子どもが何かやったら親や先生が褒めてくれる。誰かが褒めて終わり。本人の言葉を誰も聞こうとしないじゃん、それがやっぱりよくない。自分はどんな意図でこれを作ったかちゃんと説明できなきゃダメ。
授業では言葉が達者な奴もいたんだけど、写真は百聞は一見にしかず。どんだけ喋っても写真が良くないもんは良くない。自分は子どもの頃からいろんな写真を見てるから、すぐ分かる。モノがいいからってふんぞり返っていてもダメ。プレゼンもモノも良くないとダメ。そんなことを授業で勝手に学ぶ。先生は何も言わない。一種のプロセスをやっているだけだからね。本気の人たちを相手に自分の写真を説明していかなきゃいけないし、人の写真に対しても何か一言、言わないといけない。大学行ったところで英語は喋れるわけじゃないから必死でやる。みんなも温かい目だった、留学生だからさ。写真は良かったと思うんだ、自分の中で気に入っていたから。

ー大学生活で夢中になっていたことは何ですか?

90年初期一番クリエーティブに見えたファッション写真を撮ったり。アメリカに行きたかったのは、写真はもちろん、カルチャーも好きだったから色々やったよ。俺らの世代は映画や音楽もアメリカ全盛時代だから、その憧れがあるじゃん。ヒップホップが好きだったからレコード屋に行ってターンテーブルとかミキサー買って DJ やったり。友達にスケーターがいたからスケボーもしたり。スケボーショップは田舎でもあるから洋服のテイストがそっちにいったり。それまでは GAP で買っていたんだけどね。

ー在学中も一時帰国した際にはおじいさんを撮影していました。なぜ撮り続けていたんですか?

大学に入るためのポートフォリオもおじいちゃんの写真だったから、ずっと撮り続けた。なんかよくわかんないけど絵になった。それは他の人を撮っても、親父を撮ってもそうならない。だから必然とおじいちゃんを撮ることが多かった。でもそれは本当の作品だと思ってなかったんだよ。
ある日、アヴェドンやアーバスが周りの人を撮っている写真を見て、この人達がいいと思っていた被写体は身近な人だったんだっていうことが分かってくる。単純に良い写真だなって思っていたんだけどバックステージというかビハインドザシーン的なものを知って、自分がやっていることと同じだったんだなって分かる。それで夏休みに帰った時に一生懸命撮ったんだよね。それが最初だね、ちゃんと撮り始めたのは。

ー高橋恭司さんと出会ったことがきっかけでアイルランドに行かれそうですが、どのように知り合ったんですか?

日本で営業に行った時、「エスクァイア」の編集者と知り合うんだけど、その人から高橋恭司さんって写真家がニューヨークに行くから手伝ってくれませんか? って連絡があって。当時、コーディネーターはまだ少なかったから、ストロボ借りたりタクシー用意したり段取り全部やらしてもらって。
仕事が終わって「明日何してるんですか?」って聞いたらぶらぶらするって言うから「荷物持ちさせてくださいよ」って言って。ゴロゴロ機材を引っ張ってマンハッタン中歩いて撮影のお手伝いをさせてもらったんだよね。
その時、自分はファッションって考えが中心だった。いかにモデルを見つけて作品撮りして業界に行こうかと思ってた。けど、日本の人達は現在のアメリカを見てないわけよ。アメリカが持ってきた写真史全体でインプットされてるじゃん。ロバート・フランク=アメリカだと思ってる。でもアメリカではロバート・フランク知っている人ほとんどいないからね。アニー・リーボヴィッツの方が有名なわけ。当時は特にね。けど日本から来る人にとっては大スターじゃん。そういうロバート・フランクとか歴史のアメリカ人が撮ったニューヨークを見たいわけよ。でも、当時の自分はそういうことを全く知らない。
恭司さんが川に 8×10 向けてるのを見て、何を撮っているのかな? って思うわけよ。何もそこに対象物がない。ただ川が流れているだけ。そのうち一日中いたら夕方になってきて、ギャラ要らないんで撮ってもらえませんか? ってお願いしたら撮ってもらえることになって。向こうはギャラとか元々払うつもりもなかったと思うんだけど(笑)。撮られたら何を撮ろうとしているのか分かるはずだと思ってたんだけど全然わかんなかった。

ー日本に戻るきっかけは何だったんですか?

アイルランドに撮影で行ったとき高橋恭司さんの撮影スタイルを思い出して、そしたらラルティーグのことを思い出したの。学校に入ってからファションのことに一生懸命で、ラルティーグなんてすっかり頭の中から忘れてた。その気持ちというか楽しい明るい雰囲気、旅の写真をきちんとやったら良いかもなって思ってアイルランドの写真を本にまとめたのね。誰の写真集に似せようとか誰に近づけようとは全く無く、その時に撮った中で自分の一番好きな写真をまとめた。それを日本に持って帰ったらものすごく評判が良くて、すぐに仕事が始まったんだよね。マネジメントもついたし日本で働いてそのお金でニューヨークで暮らしてっていうのが始まった。泥沼の暮らしだったけどニューヨークは楽しかった。友達もいたし最先端なことも知れるしアートギャラリーも見られる。大学卒業して4年ぐらいはアメリカと日本を行き来していたんだけど、大きな広告の仕事ができるようになるとそれを蹴ってまでアメリカには行かないわけよ。それで徐々に日本に戻ってきた。

ー『希望をくれる人に僕は会いたい』、若木さんが自らインタビューをして書いた本があります。文章の書き方はどのように身につけたんですか?

書き方を悩むってことはないんだけど……読んだりしてると書けるようになるのかね。でも日本語の文章を読んでいると書けなくなる。構成の話だと思う。書き出しって難しいじゃん。だけど、外国の新聞や雑誌の書き出しはだいたい決まってるのね。映画のように始まる。そういうのが好きだから日本語でもそんな風に書けば良いんだと思ったら楽になった。

ー2004年〜2008年に「youngtreepress」という雑誌を作っています。なぜ自ら雑誌を作ろうと思ったんですか?

ニューヨークにいた頃仕事をしていた「The New York Times Magazine」は、ライターが先に記事を作り上げてきて、その記事を読んで写真を撮りにいく。ライターの人たちの取材力がすごい強いんだよね。一回だけでなく、何度も会って話を聞いて記事を作る。本当にこの人のストーリーを書こうと思っているから熱量がある。そういう仕事の仕方が日本に帰ってきたら全くない。出来上がった文章が面白いことも物語性もない。そんなことを思っていた時に「Double Take」っていう雑誌を見たんだけど、まさに文章と写真の雑誌だった。表現方法としての文章、表現方法としての写真が一体化して一冊にまとまった雑誌だったんだよね。それが面白いなと思った。それに取材性みたいなものを合体させて、今まで日本にはない雑誌を自分で作ろうと思った。単純に興味だけ、やったらどうなるんだろうなって気持ちだった。

ー「youngtreepress」は10号で終わっています。それはなぜですか?

仕事してると色々なところからヒントが得られるじゃない? ビジネスに関することも全て。大体、新しい雑誌は3号くらいで終わる。じゃあ3号以上作ったら、ちゃんとしたものを10号出したら自己満足で終わらない、見てくれる人が信念を感じとってくれるものができると思って続けたんだよね。10号やるうちにビジネスモデルとして成り立たなかったら、やっても意味ないなっていうのもあった。一応、広告ページも無理やり作ってた。素人ながらの苦策というか、広告の仕組みなんてよくわからなかったのに。簡単ではなかったけど広告は出してもらえた。それでうまく続いて10号まではできました。

ー復刊を考えたりはしますか?

実は今、作ってる。2021年の秋に復刊する予定で仕込んでる最中です。時代が時代ゆえ、今回、広告ページは難しいかもしれないから雑誌という形じゃないかもしれないけど、乞うご期待です。

ー若木さんは映画も撮られていますね? どのようなきっかけで映画を撮ることを決めたんですか?

PV は何本か撮っていて……それで有名な映画監督がプロデュースする PV の監督に候補で挙がったことがあったの。打ち合わせして曲聴いて、そのために脚本を書いたんですよ。書き方も知らなかったから西川美和さんに手伝ってもらって仕上げたんです。でも蹴られて、お蔵入りになっちゃったの。それで5年後くらいに知り合いのプロデューサーから映画を撮ろうと思っているんですが良い脚本知らない? って聞かれた時に「めっちゃ良いのありますよ!」って自分の脚本を持っていった。そしたら採用されて。やったー! という気持ちで作らせてもらいました。面白かった。全部一からだから。

ー写真家と映画監督の似ている部分って何ですか?

写真家と監督って似ているようで似てない。圧倒的に写真と同じだと思うのは、世界観を作るっていうこと。その世界観を頭から最後まで突き通せるかどうかっていうのは写真家と同じだと思う。でも、映画はいろんな人が関わって、いろんな人の役割を尊重しなきゃいけないっていうところが違うかな。

ー「白河夜船」の桃子さんが悶えながら脱いでいく長尺のシーンが好きです。

あのシーンは「controversial」なんだよね。何であれやるんだっていう意見もあった。でも写真家冥利に尽きるじゃない。写真家としてはものすごい楽しい瞬間だった。けど映画を映画として見る人にとっては、だらだら長いシーンがあるな〜って思われてるんじゃないかな(笑)。

ー2010年に地元の浜松でBOOKS AND PRINTSを作りますが、どのような思いで作られたんですか?

浜松は地元だからやりやすいと思っただけ。言っといたらやるかもな〜って軽い気持ちで始めたの。皆、自分を縛りすぎる。自分はこんな写真しか撮らないとか変なルール作っちゃうよね、誰にも頼まれてないのに。それはおかしい。別に何でもやります、でいいじゃん。あれも写真だしこれも写真だし。作家性とか作品性みたいなこと考えて自分を縛り付けちゃう。そうじゃなくて、もうちょっと引いて写真という事柄とか写真というものは何なのかが知りたい。それは、やってみたら分かるかもしれないし全部繋がってると思ってる。写真に繋がることは全てを網羅したいんだよね。

ー2018年に若芽舎を立ち上げたのはなぜですか?

自分の子どもが生まれてから色々と絵本を読むじゃない? 読み聞かせが大事だっていうのもどっかで知って。子どもは何かしら本に近づけたいと思っていた。0歳の時にサイ・トゥオンブリーの画集とか見せたんだけど全然反応なくて(笑)。だけど、トゥオンブリーの描いた曲線を指でなぞったり言葉を適当につけると喜ぶ。読んであげる人が面白がってあげないとダメでコミュニケーションの問題だってわかったんだよね。0のところに何を見せてもわからない。見せ方とかは教えてあげなきゃいけないっていうことが分かった。
それで、どういうことに反応して何が好きでどうすれば子どもが喜ぶか、そこを踏まえれば本が作れるんじゃないかと思って。今、一番売れている絵本って紹介されるのは50〜70年代の本が多い。永遠とベストセラーになっている。新しいものを作ろうとしているのかもしれないけど、自分もそこへ挑戦してみるのもいいかもなって。幸いにイラストレーターの知り合いもいたし、今の時代に今の人たちと今の子どもたちに向けて絵本を作りたいと思ったの。楽しそうだなって。

ーもうすぐ若木さんは50歳になりますが、振り返って順調だと思っていますか?

仕事は客観的に見れば順調かもしれないけど、欲が深いから自分では順調だと思っていない。そうじゃなければ次にやる気が起きない。

ー色々な人と仕事をすることができた理由は何だと思いますか?

自分から行くことだろうね。自分は作家だっていう驕りが始まる。売れてくると、すっかり神輿に担がれて俺はいけてんなってめんどうくさい奴になる時期があるのよ。俺もあったし。今でもそうかもしれないんだけど(笑)。それでも自分の好きな人、信念を持ってやっている人たちに連絡する。偉くなってくると自分から連絡しなくなる。黙っててもくるから。自分のいる世界が普通になるとダメで、外にはもっと高いレベルのものがあるって認識を常にもっている。無名じゃん、俺なんて。ティルマンスは知ってるけど俺のこと知らないじゃん。同じ時間軸に生きてるんだから偉そうにしてるわけにもいかない。目指しているわけでもないけど。ある程度やっていきたいし、残していきたいと思っています。

ー今後はどのように残していこうと思っているんですか?

50歳は結構やばいと思っていて……50〜60歳の間は20代と同じようにやらなきゃいけないと思っている。20代と同じぐらい気持ちになってやらないと60歳以降はないと思ってる。ひしひしとくるよ(笑)。40代はじめは50歳になったら好きなことやるぞって思ってたけど、意外にそうもいかない。当たり前だけど大事なのは人よりやること。人がやっていることは当然できて、それ以外のことは夜中とかみんなが遊んでいる時にやらなきゃいけない。いきなり大きいことはできないよ、コツコツ系だから俺。才能ないけど頑張るタイプだから基本は。天才みたいなものをあまり信用してない。基本は努力の人。

若木信吾(写真家・映画監督) 
1971年静岡県浜松市生まれ。
ニューヨーク・ロチェスター工科大学写真学科卒業後、雑誌・広告や音楽媒体など幅広い分野で活躍。
自身の祖父を撮り続けた代表作の写真集「Takuji」が、国内外で高い評価を受ける傍ら、雑誌「youngtreepress」の編集発行、映画「星影のワルツ」の制作、2010年には故郷の浜松に書店「BOOKS AND PRINTS」をオープンさせるなど、活動の場を広げている。
新作写真集「Things and seen」スーパーラボ刊 発売中

HP : shingowakagi
Instagram : @swakwack
Twitter : @youngtreepress
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